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#連載小説
観察者
310
椿
27
クローゼットの中の姉
「こっちにおいで」
クローゼットの中から聞こえた声。
間違いない。
姉の声だった。
小さい頃、よく一緒に遊んでいた頃の声。
私はその場から動けなかった。
「……お姉ちゃん?」
返事はない。
ただ、クローゼットの扉の向こうから、カリ……カリ……と何かを引っかく音が聞こえる。
「ねえ、開けてよ」
姉の声。
でも、何かがおかしい。
姉は海外にいる。
さっき母から電話があったばかりだ。
それに、姉は私のことを昔から名前で呼んでいた。
お姉ちゃんなんて呼んだことはない。
「……あなた、誰?」
音が止まった。
数秒の沈黙。
そして、
「ひどいなあ」
クローゼットの中から笑い声が聞こえた。
「妹なのに、忘れちゃったの?」
私は後ずさった。
その瞬間、クローゼットの扉が内側から大きく膨らんだ。
ドンッ!!
「きゃあっ!」
もう一度。
ドンッ!!
扉の隙間から、白い指が一本出てきた。
長い。
異常なほど長い。
その指が、ゆっくり私の方を向いた。
「見つけた」
私は玄関へ走った。
靴も履かずに外へ飛び出す。
エレベーターを待つ余裕なんてなかった。
階段を駆け下りる。
一階に着いて、ようやく外へ出た。
息が苦しい。
足が震えている。
私は道路の端に座り込んだ。
「もう無理……」
涙が止まらなかった。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
姉からだった。
私は慌てて電話に出る。
「お姉ちゃん!!」
『どうしたの? そんなに慌てて』
本物の姉の声だった。
私は泣きながら事情を話した。
クローゼットから声がしたこと。
母から聞いた話。
あの女のこと。
電話の向こうで、姉はずっと黙っていた。
そして、しばらくしてから言った。
『……やっぱり来たんだね』
「え?」
『あの女』
私は息を呑んだ。
「お姉ちゃん、知ってるの?」
『うん。昔、一度だけ見たことがある』
姉の声が震えていた。
『小学生の頃、夜中に目が覚めたことがあったの』
『部屋の隅に女の人が立っていて、ずっと私を見ていた』
『怖くて、お母さんを起こそうとしたんだけど……』
「だけど?」
『お母さんが、その女の人に向かって謝っていたの』
私は言葉を失った。
『ごめんなさい。まだこの子は連れていかないでくださいって』
「……何それ」
『それから、お母さんは私を絶対に一人で寝かせなくなった』
姉は小さく息を吐いた。
『でもね、ある日から女の人は来なくなった』
「どうして?」
『分からない。でも、お母さんは言ってた』
姉の声がさらに小さくなる。
『次に来るときは、あなたじゃなくて妹を連れていくかもしれないって』
私はスマートフォンを握りしめた。
「……私?」
『うん』
その瞬間、電話の向こうで誰かが姉を呼んだ。
『お姉ちゃん?』
聞き覚えのない女の声。
姉が小さく答える。
『ちょっと待って』
そして私に言った。
『ねえ、今から言うことを聞いて』
「うん……」
『絶対に、自分の名前を呼ばれても返事をしないで』
「どういうこと?」
『あの女はね、名前を呼んで返事をした人のところに来るの』
私は固まった。
『それと、もう一つ』
姉の声が震えた。
『あんたが最初に見た利用者さん……その人、私たちのお母さんと同じものを持っていたかもしれない』
「何を?」
『古い写真』
その瞬間、電話の向こうから大きな音がした。
ドンッ!!
姉の悲鳴。
「お姉ちゃん!?」
『いや!! 来ないで!!』
ガタンッ。
何かが倒れる音。
そして、姉の声が聞こえた。
『……見つけた』
私は息を止めた。
今の声は姉じゃない。
あの女だった。
電話が切れた。
⸻
私は警察に連絡しようとした。
でも、何から説明すればいい?
海外にいる姉の家に幽霊が出た?
そんな話を信じてもらえるわけがない。
私は母に電話した。
繋がらない。
兄にも電話した。
繋がらない。
誰にも繋がらない。
まるで、私だけがこの世界に取り残されたようだった。
そのとき、ふと気づいた。
私はまだ、施設で最初に襲われた利用者さんのことを何も知らない。
あの人は誰だったのか。
なぜ、あの女に襲われたのか。
そして、なぜ私を見ていたのか。
私は施設の元同僚に電話した。
『もしもし?』
「お願い、聞きたいことがあるの」
『どうしたの?』
「あの夜、最初に襲われた利用者さんのことなんだけど……」
電話の向こうで、同僚が黙った。
「どうしたの?」
『……あなた、知らなかったの?』
「何を?」
『あの利用者さん、亡くなる前にずっと同じことを言っていたんだよ』
「何て?」
同僚は声を潜めた。
『昔、この施設で働いていた女の人が迎えに来るって』
私は背筋が凍った。
『それでね、その女の人の名前が……』
その瞬間、通話に雑音が入った。
ザーッ……。
そして、同僚の声が途切れ途切れに聞こえた。
『あなたの……お母さんと……同じ……』
「え?」
『名前……』
ブツッ。
通話が切れた。
私は何度もかけ直した。
でも、もう繋がらなかった。
そのとき、スマートフォンの画面に写真が届いた。
送り主は姉。
写真には、古いアルバムの一ページが写っていた。
そこには、若い頃の母がいた。
母の隣には、知らない女性。
そして、その後ろには――
あの女が立っていた。
写真の裏に、手書きの文字があった。
『次に迎えに行く子』
その下には、私の名前。
私はスマートフォンを落とした。
そして、初めて理解した。
あの女は、私を突然選んだわけじゃない。
ずっと昔から。
私が生まれる前から。
私のことを知っていたんだ。
コメント
1件
第6話、読み終えました。めちゃくちゃ怖かった……! クローゼットの内側から扉が膨らむ描写、あの「見つけた」の一言で背筋が凍りました。そしてラスト、姉から届いた写真の裏書き「次に迎えに行く子」。生まれる前から標的が決まっていたという構造、ゾッとすると同時に「なるほどな」と膝を打ちました。この連鎖の始まりがどこにあるのか、続きが気になりすぎます。