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ふと通りかかった花屋
彼を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
まるで、身体の中に突然知らない感情を放り込まれたみたいだった。
名前も知らない。声も知らない。
それなのに――
この人を、もっと知りたい。
そう思ってしまった。
自分でも、どうかしていると思う。
普段なら、街を歩けば誰かに気づかれる。
声をかけられることにも、向けられる視線にも、もう慣れていた。
俳優『佐野勇斗』として人に見られることが、いつしか当たり前になっていたから。
なのに今は。
目の前の彼から、視線を逸らすことさえできない。
こんなことは、初めてだった。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
凛とした声に意識を引き戻される。
「…あ、えと」
「プレゼントですか?それともご自宅用ですか?」
そこには、自分を知っているような素振りも、驚きもない。
その瞬間、勇斗は気づいた。
――この人は、俺を知らない。
それがなぜだか、ひどく新鮮だった。
いつもなら、名前を知られることが先にある。
けれど今、目の前にいる彼は、自分のことを何も知らない。
俳優であることも。
テレビに出ていることも。
何万人もの前に立っていることも。
ただ、花屋に立つ彼にとっては、目の前にいる一人の客。
それだけだった。
「……あの」
気づけば、勇斗は彼に話しかけていた。
「花、詳しくなくても選べますか?」
「もちろんです」
彼が笑う。
その笑顔を見た瞬間、また心臓が跳ねた。
「じゃあ……」
店内を見渡す。
正直、どの花が何という名前なのかすら分からない。
「どんな花がお好きですか?」
「……俺ですか?」
「はい」
「そうだな……」
困った。
花の好みなんて考えたこともなかった。
けれど、彼と話していられるなら、何だってよかった。
「……あなたが好きな花は?」
言ってから、少し変な質問だったかもしれないと思った。
彼は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「僕ですか?」
「はい」
「うーん……」
彼は店内を見渡し、淡い色の花を一本手に取った。
「これ、好きです」
「へぇ……」
花の名前を覚えるより先に、彼の好きなものを知れたことが嬉しかった。
「じゃあ、それにします」
「これだけでいいんですか?」
「……はい」
本当は、花なんて何でもよかった。
ただ、もう少しだけ彼と話していたかった。
「プレゼントですか?」
「そうですね」
「どなたに?」
「……まだ、決めてなくて」
彼が首を傾げる。
「じゃあ、誰か大切な方に?」
「……そうかもしれません」
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、このまま帰るのが惜しかった。
彼の胸元に視線を落とす。
そこには、小さなネームプレートがあった。
――けれど、文字が少し遠い。
「……あの」
「はい?」
「この花って、名前……なんでしたっけ?」
「グリーンアナベルです」
「グリーンアナベル……」
名前を繰り返しながら、彼はもう一度彼を見る。
「……じゃなくて」
「え?」
「あ、いや……」
危ない。
もう少しで、花じゃなく彼の名前を聞くところだった。
「その……」
どう聞けば不自然じゃない。
考えているうちに、彼が不思議そうにこちらを見る。
「お名前、聞いてもいいですか?」
結局、何の言い訳も思いつかなかった。
彼は少し驚いたように瞬きをして、それから柔らかく笑った。
「……吉田…仁人です」
勇斗は心の中で、そっとその名前を繰り返した。
忘れないように。
初めて知った、彼の名前を。
コメント
1件
さきさん、第1話読んだよ〜!🌸 うわぁ…もう冒頭からドキドキが止まらなかった!俳優の勇斗が、自分を知らない花屋の仁人に一目惚れするって設定、めちゃくちゃエモい…😭💕 「この人は俺を知らない」っていう新鮮さと、そこから自然に会話が生まれていく流れがすごく良かった! グリーンアナベル選んだのも、名前を聞くシーンのドキドキ感も、全部が尊い…続きが気になりすぎるよ〜!✨