テラーノベル
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Mami
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第3話 王様の涙と、ほどけた糸
「カイザー、お食事の準備ができました」
記憶を失ったネスの声は、いつだって澄んでいて、どこまでも丁寧だ。かつて俺を「カイザー!」と嬉しそうに呼び、甘えるように懐へ飛び込んできたあの熱量は、今の彼にはひとかけらもない。
「あぁ。そこに置いとけ」
俺はベッドに寝転んだまま、無愛想に手を振った。ネスは「失礼します」と静かに一礼し、ワゴンを置いて部屋を出ていく。パタン、とドアが閉まる音が、俺と彼の間に引かれた見えない境界線のようで、酷く胸が痛んだ。テーブルに向かい、ネスが作ったカツレツを口に運ぶ。味は完璧だった。味覚や料理の腕前といった身体に染みついた記憶(手続き記憶)は残っているのだろう。けれど、俺がトマトソースよりデミグラスソースを好むという、あいつが何百回も繰り返して覚えたはずの「俺だけの特別」は、綺麗さっぱり消えていた。
皿の上にあるのは、ただレシピ通りに作られた、誰のためのものでもない料理だった。
「……マズいな」
喉が詰まって、これ以上飲み込めない。俺はナイフを置き、誰もいない暗い寝室のベッドに顔をうずめた。
*
カサ、とシーツが擦れる音だけが響く部屋で、俺は一人、静かに涙を流していた。
ピッチの上では世界一のストライカーとして君臨し、どんな絶望的な状況でも不敵に笑ってみせるこの俺が、ただ一人の男が自分を忘れたというだけで、声を押し殺して泣いている。情けなくて、惨めで、どうしようもなかった。
「なぁ、ネス……。お前、俺が泣いてたら、いつだって慌てて飛んできたろ……」
どんなに俺が理不尽に当たっても、あいつは「カイザーは悪くないです!」と俺の手を握りしめ、その温もりで俺を救ってくれた。俺の傲慢さを全肯定し、俺を本物の『王』にしてくれたのは、間違いなくネスだったのだ。
なのに、今のあいつにこの涙を見せれば、きっと同情されるか、あるいは気味悪がられるだけだ。あいつの記憶を取り戻す旅は、想像以上に過酷だった。一歩近づけば、怯えたあいつは二歩下がってしまう。愛し合っていた過去を突きつければ、あいつの心を壊してしまうかもしれない。
「俺は、どうすればいい……」
暗闇の中で、いくら手を伸ばしても、かつて俺のすべてだった温もりには届かなかった。
*
翌日、俺はネスをバスタード・ミュンヘンのクラブハウスへと連れ出した。何か視覚的な刺激や、身体に染みついたサッカーの感覚から、記憶の糸口が見つかるかもしれないと考えたからだ。
「ここは……」
「俺たちがいつも使っているロッカールームだ。ほら、お前のロッカーはここだろ」
俺が指さすと、ネスは恐る恐る自分のロッカーを開けた。中には、丁寧に畳まれたユニフォームと、使い込まれたスパイクが入っている。
「……あ。このスパイク、すごく足に馴染んでる気がします」
「当然だ。お前が何年もかけて、自分の足に合わせて手入れしてきたものだからな」
少しだけネスの表情が和らいだ。その瞬間を逃さず、俺は自分のユニフォームを手に取り、ネスの目の前に掲げた。
「 ネス、この背番号『10』に見覚えはあるか? お前はいつも、この背中の後ろを走っていた。俺に最高のパスを供給するためだけに、お前のその脚はあったんだ」
俺は一歩、ネスに近づく。あいつのハシバミ色の瞳を見つめ、記憶の奥底にある『熱』を呼び覚まそうと、声を低く潜めた。
「くっ……あ、頭が……」
「ネス!?」
「何か……すごく、眩しい光が見えます。大歓声の中で、あなたが、僕を振り返って、笑っていて……。でも、それと一緒に、すごく息が苦しくなるような……冷たい、雨の音が……っ!」
交通事故の夜の記憶。あいつが意識を失う直前の、あの絶望的な瞬間がフラッシュバックしているのだ。
「あ、頭が割れそうに痛い……っ! カイザー、助けて、カイザー……!!」
ネスが、俺の名前を叫んだ。それは憧れのストライカーを呼ぶ声ではなく、紛れもなく、かつて俺にすべてを委ねていた、あの頃のネスの声だった。
「ネス……!」
俺は堪らずネスの身体を強く抱きしめた。しかし、ネスは激しく呼吸を乱しながら、俺の胸を両手で強く押し返した。
「嫌だ……っ! 来ないで、思い出そうとすると、何かが壊れそうで怖いんです……! お願いだから、僕を一人にしてください……っ!」
拒絶の言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。どれだけ愛していても、今の俺の存在そのものが、ネスにとっては精神を脅かす「毒」のようになっているのだ。
「……あぁ。悪かった。もう無理はさせねぇ」
俺はゆっくりと腕をほどいた。差し伸べた手は行き場を失い、宙で虚しく握りしめられる。記憶を戻すということは、あいつにあの凄惨な事故の恐怖をもう一度追体験させることでもあるのだ。その残酷な事実に、俺の心は激しくきしんだ。