「……郁斗さん……ありがとうございます」
抱き締められた事によって安心したのか、詩歌の身体の震えは徐々に収まっていく。
全ての不安が無くなった訳ではないけれど、郁斗が大丈夫と言ってくれた事や、必ず守ると宣言してくれたおかげで詩歌の恐怖は少しずつ薄れていったのだ。
落ち着きを取り戻した詩歌はある事を思い付いたらしく、ひと呼吸置いた後、話を始めた。
「……あの、組織の人たちには、私の情報が出回っているんですよね?」
「そうだね。写真は勿論、詳細なプロフィールまでね」
「……あの、気休め程度にしかならないかもしれないですけど……髪型を変えるというのはどうでしょうか?」
「え?」
「髪を短くして色を染めれば、少しは別人に見えたりしませんか?」
詩歌の突然の提案に若干驚きつつも郁斗は何か思う事があったようで考え込む事数分、
「……そうだね、何もしないよりは良いかもしれない。けど、詩歌ちゃんはそれでいいの? 髪、伸ばしてたんじゃないの?」
詩歌の提案に賛成しつつも、彼女の長い黒髪を短く切ってしまうなんて少し勿体無い気がした郁斗は今一度本人の意思を確認する。
「いえ、これは私の意思というより、義父に伸ばすよう言われていたんです。私自身、髪の長さにはそこまで拘りがないので切ってしまっても問題ありません」
伸ばしていたのは詩歌本人の意思では無かった事が分かると、
「そっか、それならいっその事、イメージチェンジしちゃおうね」
そう言いながらスマホを取り出すと、誰かに電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、志木? ちょっと頼みがあるんだけど、今から行ってもいい?」
相手は『志木』という名前らしく、都合を聞いた郁斗は何度か会話を交わすと電話を切って笑顔を浮かべ、
「さてと、それじゃあこれから出掛けよっか」
もうすぐ午前一時を回るという、普通ならば寝る時間であろう時刻から出掛けようと言ったのだ。
「あの、今からですか?」
「うん」
「えっと、どちらへ?」
「ああ、志木っていう知り合いの美容師のところだよ。志木は完全な夜型人間だから、今からの方が都合良いんだよ」
「美容師さんなのに、夜型人間なんですか?」
「あー志木は今、色々あって無職なんだ。だから基本昼間は寝てるんだよ」
「そ、そうなんですね」
「美澄、小竹、お前らはもう帰っていいよ。明日は小竹が担当だよな? 俺、昼から出掛けるからそれまでには来ててね」
「はい、分かりました、では、今日のところは失礼します」
「それじゃあ郁斗さん、詩歌さん、失礼します」
こうして郁斗に帰っていいと言われた美澄と小竹はひと足先にマンションを後にし、二人から遅れる事約十分、詩歌と郁斗も志木の自宅へと出かけて行った。
車で四、五十分程かけてやって来たのは市外の商業施設ビルが建ち並ぶ一角で、辿り着いたのはとある五階建てのビルの前だった。
「ここ、ですか?」
「そうだよ。さ、行こうか」
「はい」
そのビルは周りのビルに比べると少し年季が入っていて、あまり綺麗とは言い難い。
各階にテナントが入っていて、営業時間中であれば、不気味とは思わないのだろうけれど、流石に深夜とあってどのテナントもやってはおらず、全ての階に明かりは付いていないので、誘導灯の明かりが微かに見える。
中へ入ると電球が切れているのか、電気が付かず、玄関入口からエレベーター前までの廊下は誘導灯の明かりだけが灯っていて何だか凄く不気味に感じてしまい、詩歌は一人だったら絶対に歩けないと思っていた。
「大丈夫? 足元気を付けてね」
「すみません、ありがとうございます」
郁斗が手を差し出してくれたので詩歌はその手を取ると、ゆっくり一歩ずつ歩みを進めて行き、エレベーター前まで来た彼女は改めて気付く。
外から見た限り、どの階にも明かりは付いていなかった事に。
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