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黒い瓦が輝く総檜造りの和風家屋。その母屋の離れでは、鹿威しがカコーンと静かなリズムを刻んでいた。瓢箪池には白と朱色の錦鯉がゆらゆらと泳ぎ、辰巳石の門構えがどっしりと構える。赤松の枝は空を目指して曲がりくねり、針葉樹の陰を芝生に落としていた。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花、白い灯台躑躅の垣根が庭を彩り、青々とした芝生が広がるその風景は、まるで時間が止まったような静けさを湛えていた。
敷地の一角には、場違いなほどモダンな綾野建設株式会社のガラス張りの社屋が建っていた。そこでは湊と賢治が働いている。ガレージには賢治の黒いアルファードが駐車していた。ピカピカに磨かれたその車は、まるで賢治の自己主張そのものだ。菜月と湊は、その車を見るだけで眉をひそめた。賢治の派手な振る舞いや、従業員を執拗に責める姿が頭に浮かぶからだ。
「落ち着こう、菜月」
湊が低い声で言うと、菜月は小さく頷いた。
「うん」
「みんなが心配するからさ」
「うん」
二人は深呼吸して気持ちを落ち着け、母屋の玄関へ向かった。重厚な木の扉をガラリと開けると、「あら、あら、あら、あら!」と家政婦の多摩さんが慌てて飛び出してきた。割烹着の裾で手を拭きながら、彼女はいつもの少しドタバタした笑顔で二人を迎えた。
「菜月さん、お帰りなさいませ!」
「あら、湊さん。ゴミですか? 捨てておきましょうか?」
湊は手に持ったゴミ袋を軽く振って笑った。
「良いんだよ、多摩さん。これは大事な物だからね」
「そうなんですか?」
多摩さんは首を傾げ、不思議そうな顔をしたが、すぐに菜月の方を向いた。
「菜月さん、今夜はお夕飯食べて行かれますか?」
「あ、頂こうかな」
「南瓜と小豆のいとこ煮ですよ。ほっこりした味になるように、じっくり煮込みましたから!」
「わぁ、楽しみ!」
菜月は精一杯明るい笑顔を作ったけど、心のどこかで小さな波が立っていた。湊がそっと菜月の肩に手を置くと、彼女はハッとして微笑んだ。
「菜月」
「あ、うん。多摩さん、またあとでね」
「はい、はい、はい、はい!」
多摩さんの元気な声に見送られ、菜月と湊は連れ立って座敷の奥の和室へと向かった。誰も使っていないその部屋は、どこか埃っぽくて、菜月は入るなりくしゃみをした。
「ぶしっ! うわ、埃臭いね、ここ」
「だろ? 久々に来たからな」
菜月は障子を開けて窓を押し上げ、春の風を部屋に招き入れた。カコーンと鹿威しの音が遠くから響き、灯台躑躅の白い花が庭で揺れているのが見えた。湊は押し入れの引き戸をガラリと開けた。中には大小の段ボール箱が積まれていたが、奥にはまだ余裕があった。
(入りそうだな)
湊がゴミ袋を手に段ボールを退けると、奥に丸い缶が転がっていた。埃にまみれ、蓋が錆びついた古いクッキーの空き缶だ。
「あ、それ!」
菜月の声が弾んだ。湊が手を伸ばして缶を取り出すと、彼女は懐かしそうに目を細めた。
「これ、お父さんがお土産に買って来てくれたクッキーだね」
「美味しかったよね。あのバターの香り、めっちゃ濃かった」
「うん! 家族みんなで奪い合って食べたよね」
菜月は缶に描かれたクッキーの模様を指でなぞり、遠い記憶をたぐり寄せるように微笑んだ。ところが、蓋を開けようと力を入れるも、錆びついてびくともしない。
「うーん、固い!」
菜月が唸ると、湊が「貸してごらん」と手を伸ばした。彼が少し力を入れると、蓋は呆気なくパカッと開き、畳の上にコロンと落ちた。 中には、色あせたキャラクターの便箋が一枚だけ入っていた。
「懐かしい」
「うん」
菜月がそっと便箋を開くと、そこには鉛筆で書かれた幼い文字が並んでいた。
*なつきとけっこんできますように
*湊のお嫁さんになれますように
二人は顔を見合わせ、思わず笑顔になった。菜月の頬がほんのり赤らみ、湊の目も少し潤んでいるように見えた。
「これ、さ…僕が小学6年生の時に書いたんだよね?」
「うん、6年生の夏休み。お父さんがこの缶持って帰ってきて、みんなで食べた夜に書いたんだよね」
あの夏、菜月と湊は母屋の縁側でクッキーを頬張りながら、将来の夢を語り合った。まだ何も知らない子供だったけど、二人でいる時間がただただ楽しくて、ずっとこうしていられたらいいね、なんて本気で思っていた。便箋に書かれた願い事は、幼いながらに本物の気持ちだった。
「菜月、覚えてる? この缶、隠すのにめっちゃ苦労したんだから」
「うそ、覚えてるよ! だって、多摩さんに見つからないように押し入れの奥に押し込んだんだもん。」
二人は声を上げて笑った。 湊は便箋を手に、そっと菜月の手を取った。
「菜月、僕が菜月を守るから」
「うん」
「僕が菜月を幸せにするから」
「うん」
菜月の声は小さかったけど、しっかりとした響きがあった。湊はそっと彼女を抱き締め、菜月はその背中に腕を回した。二人の間には、幼い頃の約束と今この瞬間の気持ちが重なり合っていた。
カコーン。
鹿威しの音が、灯台躑躅の庭に静かに響いた。庭の錦鯉が水面で尾を振る。春風が障子を揺らし、部屋に新しい空気を運び込んだ。