賢治と結婚して綾野の家からマンションへ移り住んだ菜月は、気が向いた時、こうして綾野の家で過ごすことが多かった。けれど菜月は、ハンギングチェアに揺られ赤毛のアンの本を読み微睡まどろむ事はあっても、賢治が帰宅するまでにはマンションに戻っていた。賢治は菜月が、実家に入り浸ることを嫌がったからだ。それでいつも、賢治が帰宅するまでにマンションへと急いで帰った。
けれど、賢治の浮気が発覚した今、そんな気遣いが馬鹿らしく思えてきた。そこで菜月は、多摩さんに夕食に誘われありがたく頂戴する事にした。
(もうこの際、賢治さんに叱られても良いわ!)
賢治の機嫌が悪い顔が浮かんだが、菜月は夕食の席に着いた。
「菜月さんとお夕飯を頂くなんて久しぶりね」
「うん」
同じ食卓を囲んだ ゆき は嬉しそうに微笑んだ。茶の間のテーブルに並べられたフクラギ魚の煮付け、天ぷら、南瓜かぼちゃと小豆のいとこ煮は菜月の好物だ。美味しそうに箸を付ける娘に ゆき が話し掛けた。
「今度は賢治さんといらっしゃい」
菜月の表情が強張った。その瞬間を見過ごさなかった ゆき は怪訝そうな顔をして菜月を凝視した。
「どうしたの?なにかあったの?」
「あ、あの」
焦る菜月、そこで 湊 が助け舟を出した。
「ちょっと喧嘩しちゃったんだよね」
「まぁ…!」
「そうなの、お洗濯物に買い物のレシートが入っていて、賢治さんのお気に入りの靴下が紙屑だらけになって」 「あぁ、なんだそんな事!ちょっと心配しちゃったわ」
「大丈夫、新しい靴下買ったら許してくれたから」
「菜月さん、気をつけなさいね」
「うん」
菜月と湊は安堵の溜め息を吐いた。それでも気不味い菜月は箸を置いた。
「賢治さんが待っていると思うからもう帰るね」
「そうね、あまり遅いと心配するでしょうし、 湊 、マンションまで送りなさい」
「うん、分かった。菜月、支度して」
すると多摩たまさんが「はい、はい、はい、はい」とタッパーウェアに南瓜と小豆といとこ煮を取り分け紙袋に入れて持たせてくれた。
「ありがとう」
「お口に合うか分かりませんが、賢治さんにどうぞ」
「いつもありがとう、きっと喜ぶわ」
「はい、はい」
いつもと違う菜月の翳りに、 ゆき は不安を抱いた。
ガレージに賢治のアルファードは停まっていなかった。定時で退社、その後どこで何をしているのか定かではないがせめて今日くらいはマンションに帰っていて欲しいと 湊 は心からそう思った。
「雨、すごく降ってるね」
「昼間はあんなに晴れていたのにね」
「うん」
そう力無く答える助手席の横顔はフロントガラスに打ち付けては流れ落ちる雨の雫を見つめていた。離婚を決意したと強く意志を表明した菜月だったが、やはり気落ちしている。
(このまま菜月を帰しても良いんだろうか)
いっそ、両親に訳を話して綾野の家に身を寄せてはどうだろうか。湊は 考えあぐねた。
「あっ!湊!信号!」
心配事に気を取られた 湊 は赤信号を見落とす寸前だった。慌ててブレーキを踏む右足に力を込めた。突然の衝撃にフロントグラスに飛び出した菜月の後頭部はヘッドレストに打ち付けられた。
「だっ!大丈夫!?」
「うん、びっくりした! 湊 らしくないよ!気を付けてね!」
「ごめん」
湊は菜月に酷く叱られた。雨は止むことを知らない。
「さぁ、着いたよ準備して」
「うん」
マンションのエントランスには激しい雨風が吹き付けていた。運転席を降りた 湊 は置き傘を開き菜月に差し掛けた。
「湊、背中が濡れてるよ」
「良いんだよ、菜月が濡れなければ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
エレベーターホールで上階へのボタンを押した。上昇するエレベーターの中のあの匂いは消えていた。消臭クリーニング作業が入ったのだろう。仕事が早い。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!