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ウルゼンの表情が瞬時に変わる。明確な焦りと驚きだ。目の前にいる二流だと思っていた魔導師が、自分の想定を超えていたからではない。握り締めた翡翠の大杖を見て、恐怖を感じて後退った。
「ば、ばかな! それは大賢者の〝竜翡翠の杖〟……!?」
世界に一振りしかない、最強の魔導師が持つ、最強の杖。竜の血が浄化された際に生まれた大きな宝玉は、魔導師ならば誰もが魅了される価値がある。
放つ魔法の能力を最大限に引き出すための道具だが、生半可な魔力しか持たない者では逆に魔力を吸い尽くされて命を落とすとも言われ、扱えるのは、現時点では大賢者ヒルデガルド・イェンネマンだけだ。
「と、ということはまさか、あなたは……!」
「どうした、途端に臆したか?」
目の前にいるのは亡霊などではない。本物の大賢者なのだ。さきほどから魔法をことごとく防がれた挙句、手にした杖の強大さを見れば、考えるべくもなく、彼女こそがヒルデガルド・イェンネマンだと分かる。たじろぐのも無理はなかった。
「嵐よ、来たれ。果敢なる歩みを以て空を揺るがすがいい、風の精霊よ──《エアリアル・テンペスト》」
肌を切り裂くような、けたたましい叫びにも似た音と共に、ヒルデガルドたちの周囲を取り巻く猛烈な風が賢者の間を吹き飛ばす。部屋がなくなり、夜空に手が届きそうな魔塔の最上階には部屋と呼べる痕跡は傷だらけの床のみになる。
「大賢者の間など下らんものがあったせいで、君には随分としてやられた。ゆえに貴重な資料など必要はない。未来は自分たちで作ればいい。──ご退場願おう、ウルゼン・マリス。魔塔の規則に従い、君をここで処断する」
もはや彼の退路は断たれた。大賢者を敵に回して逃げられるとは思っていない。だが諦める気もさらさらなかった。
「……ふふっ……くくっ、そうですか。残念だ、大賢者様が亡くなられ、ようやく、この魔塔を実験場として活用できると思ったのに」
ローブの中をまさぐり、懐から試験管を取り出す。満たされた濃い青の液体をいっきに飲み、足下に空の容器を捨てて踏み割った。
「今の液体はいったいなんだ?」
尋ねられた彼は口もとから垂れた液体を拭う。
「魔物から抽出した濃縮魔力、いわゆる|増強剤《ドーピング》ですよ。苦労した末に何体も捕まえてきた強力な魔物共から得てきた、わたくしの秘策。あってほしくはなかったですが、こんな日が来るやもと予感はありましたからねえ……」
空に向けて広げた手を掲げる。誰もが見上げる先、雲を吹き飛ばして広がる巨大な紅い魔法陣に驚愕した。それは町にいる人々の目にも映っているだろう。まさに異質な状況が首都の空に輝いているのだ。
「ハハハ! 見てみなさい、これぞわたくしの研究の成果……濃縮魔力ひとつあれば大賢者に勝るとも劣らぬ魔力を一時的に得られるというわけです! 一度発動した、この《メテオインパクト》が、あなた方に防げますか!?」
ウルゼンは魔塔ごと何もかも消滅させようとする。証拠がなければ彼を咎めるのも不可能だし、魔塔ごと彼女たちを吹き飛ばして、もし始末できなくとも、混乱に乗じて逃げ仰せてみせようとした。
「ま、まずいわ! あんなのが落ちたら魔塔だけじゃ済まない……ちょっと防いだとしても、首都に甚大な被害が出るわよ、どうするの!?」
「まあ落ち着け、カトリナ。あっちを見ろ」
彼女が視線で示す先では、空を眺めるだけのアーネストがいる。
「あれくらい冷静になれ、君が狼狽えれば隕石《メテオ》は消えるのか?」
「そんなこと言ったって……ねえ、イーリス!」
振り向いた先で、イーリスは証拠をぎゅっと抱きしめて──。
「だ、大丈夫。ヒルデガルドならなんとかできる……んだよね」
「もちろん。臆病にならなくてもいい」
フッと自信たっぷりな表情で、空へ杖を向ける。
「いくら増強剤を使ったところで、この程度とは研究の成果が聞いて呆れる。どれ、私も見せてあげるとしよう、本当の研究の成果ってものをな」
翡翠の宝玉が青白く輝き、柱のような閃光がまっすぐ《メテオインパクト》へ飛んでいく。魔法陣から姿を現す巨大な隕石に接触すると何方向にも散らばり、強烈な輝きが隕石を包み込む。まるで昼間が訪れたように首都が明るく照らされた。
「な、なんです、これは……!?」
「君のような三流にも分かるように教えてやろう」
杖を構え続けるヒルデガルドがニヤッとした。
「《クリア・ゼロ》。私は、この魔法をそう呼んでいる」
世界を救う旅路の最後に見出した、最強の魔法。あらゆる属性を持つ魔法の中で、たったひとつしか存在しない異質さ。《クリア・ゼロ》は彼女だけが創り出せる、異次元の力。
「──この魔法は〝無属性〟。君たちが扱うには、あまりに膨大な魔力を消耗するため、私以外の誰もが再現不可能な、あらゆる対象物を無力化し消滅させる黒白の輝き。歪んだとはいえ同じ魔導師として高みを目指した君への手向けだ」
白い輝きは黒く染まり、首都に闇が帰ってくる。魔法陣は消え失せ、ウルゼンは空に満たされた魔力の波動を感じられなくなった途端に愕然と膝をつく。圧倒的な力を前に全身を震えさせて汗に濡らし、隕石の消失した空を見上げた。
「そ、そんな……わたくしがこれまで積み重ねてきたものが、なにひとつ、及ばないというのですか……大賢者のつま先にさえ、届かないと……」
ヒルデガルドは杖を光に弾けさせて、どこかへしまった。
「そういうものさ。不正に得たものはすぐになくなるぞ、ウルゼン。魔導師としての矜持を捨てた時点で、君は私のいる場所へ続く道を自ら断ったんだ。君の本質など見抜いてはいたが、少しは気に掛けてやったつもりなのに残念だよ」
アーネストがウルゼンの傍に近寄り、肩に手を置く。
「もう抵抗する余力もないんだろ。あんたの負けだ」
「……っぐ、う……うるさい、うるさい、うるさい!」
肩に置かれた手を振り払って立ち上がり、彼は叫ぶ。
「あなた方はまるで理解していない! わたくしの研究は必ずや未来の役に立つのに、なぜそれを理解しようとさえしないのです!? たかが魔物の命と、我々人類の未来、どちらが大事かなど分かり切って──」
ぱちんと指の鳴る音が響く。彼の荒々しい言葉を紡ぐ口が、ぱくんと閉じる。縫い付けられたように開けなくなった。
「聞くだけ無駄な時間だ。もう、何も喋るな」
彼の背後に、突然巨大な扉が現れる。不格好な石造りの門扉が、がりがりと音を立ててゆっくり開いていく。黒い煙が噴き出す門の向こうは真っ暗闇で何も見えず、近くにいたアーネストは直感で『危険な代物だ』と理解して息を呑む。
「後悔する必要はない。未来を憂う意味もない。地獄の門を潜らせてやろう、ウルゼン・マリス。永遠に続く闇を彷徨う恐怖をくれてやる」