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18メートルの距離でむかい合ったツトムとハルキ。
ふたりは、短い静寂のなかにいた。
それは投手と打者による駆け引きの時間ではなかった。
流れては消えた過去に対する、彼らなりの想いを精算するための静寂だった。
「おい、南海ツトム。いつまでも過去に縛られてんじゃねーよ」
谷山ハルキがグローブを腹に据え、軸足を回転させた。
パーン!
ハルキの手を離れた球は、瞬時に池畑洋一のミットに吸い込まれた。
ど真んなかにねじ込まれた直球に、ツトムはまったく反応ができなかった。
スター選手の本気の投球。
ツトムの内部に眠るドーパミンが分泌される。
ツトムは打席を一度離れた。
それから深呼吸をして、白石ひよりの豊満な胸を思い描いた。
目を開けては、心に定着した冷静さをたしかめるように3度素振りをした。
「おまえこそ、肩から花火なんか打ちあげてんじゃねぇよ」
「ハルキさん、本気ですよ」
捕手をつとめる池畑洋一が言った。
「感謝してるよ」
「おいおい、しゃべってる暇なんてあんのか?」
谷山ハルキが再び大きく振りかぶる。
大胆なスリークォーターフォームから放たれた2球目は、鋭く突きささるカーブだった。
ツトムはもちまえの選球眼で見送った。
「2ストライク」
「うん?」
ツトムはうしろを振り返った。
大きく逸れたはずの球は、外角ギリギリのストライクゾーンに収まっていた。
「衰えたな気絶王子。いや、ザ・振らない男」
ハルキが唇の端を釣りあげ、ツトムも同様の動きを口もとに描いた。
「懐かしい呼び名だ。覚えててくれて光栄だよ」
高校時代、ツトムはライバル校の選手たちから『ザ・振らない男』と呼ばれて恐れられた。
選球眼に優れ、バットをほとんど振らないことから由来した呼称だった。
「南海ツトムがバットを振るときは、打つとき。おまえ県内で有名だったからな。おまえが打席に立って、眉間に指を当てるクセあるだろ。
打率の悪いウチの下位打線の何人かが、ゲン担ぎのようにマネしてたよ」
当時のツトムは、優れた選球眼と時間を巻き戻す能力を用いて、安打を量産した。
長打力には長けていなかったものの打率は優に四割を超え、いつしか県内ではその名が広く知られるようになっていた。
「ザ・振らない男なんてのは、しょせん高校野球界でのふざけたあだ名だ。プロに入って思い知らされたよ。ここはバケモンの巣窟だったってことをな」
谷山ハルキが放った3球目も鋭いカーブだった。
球は一直線に池畑にむかいながら、打席の手前で外角へと逃げた。
ツトムはこれも見逃した。
「1ボール2ストライク」
池畑がミットにめり込んだ球を谷山ハルキに返した。
「しかし……ほんと、振らねぇな」
谷山ハルキが4球目を振りかぶる。
投げ込まれた球が内角を突いてくる。
ツトムはすばやく腰を回転させバットに当てた。
球はバットの上部をかすめバックネット方向へと流れていった。
「おぼえているか? 甲子園県大会決勝の日、俺はおまえに3本のヒットを打たれた」
「おぼえてるさ」
谷山ハルキがマウンドの土を慣らした。
「味方の援護のおかげで試合に勝って甲子園に駒を進めたが、その日を境に、俺は自分が天才じゃないのを認めたんだよ」
「俺はそれよりはるか昔に、天才という称号を他人に譲ったよ。そいつの名前はもう忘れたが、たしかお尻がとてもかわいかったことだけは記憶している」
「……うれしい限りだ」
谷山ハルキは懐かしい記憶をたどるように、宙を仰いだあと目に力を宿した。
しかし放たれた5球目は、ツトムのはるか頭上を通りすぎる大暴投だった。
カウントは2―2となる。
あらぬ方角へと投げられた球を見て、ツトムの胸に熱い思い出がよみがえった。
「県大会決勝の9回裏。谷山ハルキの大暴投によって、一塁ランナーが得点圏への進塁を果たし、一打同点の山場を迎えた。
再現するつもりか……。大暴投のあと、渾身のストレートで俺は三振し、チームは敗れた」
「もう一球タイムスリップしようぜ」
谷山ハルキの発言は、つぎの球種とコースをツトムに示したに等しかった。
真正面から挑戦状を叩きつけられたツトムの脳裏には、あの日の光景が浮かんだ。
甲子園地方予選大会決勝、ハルキが投じた大暴投のあとの剛直なストレートは、ツトムの能力をもってしても打てなかった最高の一球だったことを。
……つぎが最後になるだろう。
走馬灯のように、ツトムの野球人生がよみがえっては消えた。
視界には、谷山ハルキの颯爽とした姿だけが残った。
振りかぶったハルキの球が、遠心力に乗って池畑洋一のミットへと伸びてくる。
ツトムは体の軸をしっかりと固定したまま、全力でバットを振り抜いた。
カキーン!
甲高い音とともに、バットに弾かれた球は、谷山ハルキの頭上を超えて上昇軌道に乗った。
打球はそのまま室内照明を保護する金網に衝突しては垂直に落下した。
……。
打ったツトムも打たれたハルキも、見守る池畑洋一も、声を失ったまましばらくグランドに転がる球を見つめていた。
「これって……」
池畑洋一が声をあげた。
「やられたよ」
ハルキが呆然とそう言った。
「いや……」
ツトムは打球の進行方向と落下地点を交互に眺めてから、打席を離れバットスタンドにバットをしまい込んだ。
「ハルキ、洋一、俺の身勝手につき合ってくれてありがとう」
ツトムはハルキと池畑洋一に深々と頭を下げ、踵を返して歩きはじめた。
「ツトム、待て」
谷山ハルキがツトムを呼び止めた。
池畑洋一は心配そうにツトムのうしろ姿を追っている。
「ハルキ、ちがうんだ。俺にはわかる……。あれはセンターフライだ」
ツトムの顔には、鬱屈など入り込む余地のない清々しい笑みが浮かんでいた。