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美咲との待ち合わせ場所に到着したツトムは、大気に触れて一度身を震わせた。
冬は思った以上に早くこの地に到来し、道行く人々は背を丸めて目的地にむかっている。
遠い空には、強い光を放ついくつかの星が瞬いている。
俺もいつかあの星のように……。
そんな揺るぎない心をもって過ごした日々を、ツトムはいま、大切に胸に閉じ込める。
「ツトムくん、準優勝おめでとう」
3週間ぶりに会う美咲は、まるで寒さに無頓着な笑顔を見せた。
ファーコートのなかに潜む細い肉体と、明るく跳ねるような声がツトムには久しぶりだった。
「日本シリーズが終わってもう10日も経ったんだ。世間は野球のことなんて忘れてるさ」
「それでもわたしは、準優勝したチームに所属する選手の彼女だよ。直接おめでとうくらい言わないと気が済まないよ」
さきの日本シリーズでチームは惨敗を喫した。
一軍復帰を果たした谷山ハルキが完封勝利で一勝をもぎ取ったが、チームの勝利はその一勝にとどまった。
メディアは朝日フライングバグスの優勝パレードの模様や、来年度からメジャーリーグに挑戦する花塚選手を取りあげるばかりだった。
「敗れた者は静かに去っていくだけさ」
ツトムは自分に言い聞かせるように言った。
「ん? いまなんか言った?」
となりについて歩く美咲がツトムの顔を覗き込んだ。
「隠れたイタリアンの名店が俺たちを待っている。そう言ったんだ」
「うん。久しぶりのデートだからすごく楽しみだよ」
「ん? いまなんか言った?」
「あーっ、もう」
美咲は頬をふくらませてツトムに腕をからめた。
ターミナル駅を照らす華やかな照明が、徐々にその数を減らしていく。
記憶しておいたルートをたどり生活区域のなかを進むと、まるで置き去りにされたおもちゃのように、一件のイタリアンレストランが佇んでいた。
広めの店内に足を踏み入れると、なかは溢れんばかりの客で埋め尽くされていた。
ツトムは「隠れた名店」との情報を提供してくれた知人に、混み合う店内の写真を送信しておいた。
「せっかくだから、コースとかじゃなくて好きなものを好きなだけ食べようか」
席に着いたツトムと美咲は、しばしメニューとにらみ合ったあと、心の赴くままに料理を頼んだ。
「注文方法がほとんど居酒屋だね」
最後にカルパッチョを頼んだ美咲が笑った。
「好きなものを頼むほうがいいに決まってる」
ツトムは自分の言いぐさが、どこか大垣オーナーっぽくて、ひとりはにかんだ。
注文を終えたツトムと美咲は、離れていた時間を埋め合うように話に花を咲かせた。
美咲はここ最近の仕事の悩みを打ち明けたが、実力主義の世界で生きてきたツトムにとってはある種の荒唐無稽な作り話のようであり、悩みに適した助言をしてやれないことがいつもながらに残念だった。
純白色のテーブルクロスのうえに、値の張るワインボトルが運ばれた。
ワインの王様バローロ・フランチャが、ふたつのグラスに注がれる。
「ツトムくん。今夜はなにに乾杯しようか?」
美咲は深紅のワインを見つめながら言った。
「管理栄養学の支配から逃れた、再起の夜に乾杯かな」
「なにそれ、よくわかんない……。もっとわかりやすいのにしてよ」
「ちょっと難解だったかな」
「べつになんでもいいのよ。ただ、ふたりがうれしくなるような言葉だけは添えてほしいな」
ツトムは野球界から引退したのを、どう伝えようかと迷った。
実際美咲を目のまえにすると、思ったよりも打ち明けるのに勇気がいった。
「ねえ、なにに乾杯?」
美咲はグラスに入ったバローロをくるくると回している。
ツトムはまわりくどい表現を避けることに決め、グラスをもってその場に立ちあがった。
「じつは今日、大切な話があるんだ」
そびえるようなツトムの高背に、まわりの視線が集まった。
ツトムは気にすることなく美咲だけを見つめた。
美咲も思わず立ちあがって姿勢を正した。
「――南海ツトムのプロ野球引退に乾杯」
ツトムは小さな声でそう言った。
「えっ、なに? いんたい?」
耳に届いた言葉を、美咲はすぐには理解できなかった。
そしてゆっくりとその意味を頭で解いたとき、手から力が抜けてグラスを落とした。
落ちたワイングラスがテーブルに弾かれ、純白のテーブルクロスを赤く染めた。
倒れたグラスはコンパスで円を描くように半回転しながらさらに下へと落ち、木造りの床に接触して砕けた。
店内の注目がふたりに集まった。
『クイッ、クイッ』
ツトムはすぐに人差し指を眉間に当て、2度折り曲げた。
6秒前の世界が再現される。
「南海ツトムのプロ野球引退に乾杯」
「えっ、いんたい?」
ツトムはすぐに空いた手で、美咲のグラスを支えた。
手の神経をなくしたように、美咲はあんぐりと口を開けたまま固まっている。
「美咲。グラス落としそうだよ」
「ああ、ごめんなさい」
「なんか恥ずかしいから座ろうか」
「……ツトムくん、引退したの?」
美咲は椅子に腰かけるなり聞いた。