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第三話:宿を巡る妖力と、執着の朝
昨夜の激しい睦み合いは、単なる快楽の記憶として終わるものではなかった。
目が覚めたとき、視界に飛び込んできたのは、見覚えのない豪奢な格天井(ごうてんじょう)だった。湿り気を帯びた空気の中に、玉藻が纏う沈香の香りと、混じり合った情事の甘く重い匂いが滞留している。
「……夢、じゃなかったんだな」
身体を起こそうとして、僕は異様なまでの「軽さ」に息を呑んだ。昨日まで僕の精神を蝕んでいた、泥のような倦怠感や理不尽なストレスが、跡形もなく消え去っている。代わりに、下腹部の奥底――丹田のあたりから、熱く、それでいて驚くほど澄んだエネルギーが全身の血管を駆け巡っているような感覚があった。
ふと、枕元に置かれた古い姿見が目に留まる。そこに映る自分を見て、僕は言葉を失った。
「なんだ……これ……」
乱れた髪の間から、左右に一対、黒く艶やかな「角」が突き出していた。
まだ指の節ひとつ分ほどの長さだが、それは紛れもなく、人間ではない何かの証。驚愕して鏡を凝視すると、瞳の奥には微かに黄金色の光が宿り、肌は内側から発光するかのように透き通っている。
「……おや。もう目覚めたのか。その角を見て、驚いたかえ?」
背後から、熱い吐息と共に、滑らかな腕が僕の首に絡みついた。玉藻だ。昨夜の緋色の着物をゆるりと羽織り、白く長い脚を惜しげもなく覗かせている。その表情は、獲物を存分に味わい尽くした獣のように艶やかで、深い満足感に満ちていた。
「それは妾の精をお主が受け入れ、内なる霊力が形を成した証じゃ。お主はもう、ただの脆弱な人間ではない。半分はあちら側に足を突っ込んだ、妾の『つがい』としての身。現世の毒に当てられることも、病に伏すことも、もうありはせぬ。……お主は、妾が育て、妾が愛でる、唯一無二の宝となったのじゃ」
玉藻が誇らしげに僕の角をなぞる。その指先が触れるたび、角の付け根から脳髄を直接揺さぶるような激しい快感が走り、僕はたまらず声を漏らした。
「玉藻、僕は……どうなってしまうんだ? この角は……」
「ふふ、恐れることはない。お主はただ、妾のものになっただけのこと。現世で誰にも顧みられず、使い捨てられるだけの人生より、よほど幸せであろう? 妾が、お主のすべてを管理し、愛してやるわ」
彼女はそう言うと、僕の胸元に顔を寄せ、その鋭い牙を僕の肌に軽く立てた。それは印(マーキング)を刻むような、執着に満ちた仕草。昨日までの高潔な女将の面影はどこへやら、今の彼女は独占欲に突き動かされる一匹の妖狐そのものだった。
「玉藻……っ、やめてくれ、まだ体が……」
「……やめてくれ、かえ? その割には、お主の『種』は昨夜よりも増して熱を帯びておるようじゃが? 嘘を吐いても、この尾は誤魔化せぬぞ」
彼女の白い尾が、再び僕の腰に、太ももに、そして角へと絡みついてくる。その尾は意思を持つ生き物のようにうねり、僕の肌を執拗に愛撫した。玉藻の瞳は黄金色に爛々と輝き、僕を逃がさないという意思を明確に示している。
「あ……くっ……」
「よいか、お主。この宿のすべては、妾が統べておる。そしてお主は、その妾が選んだ唯一のつがいじゃ。……お主のその溢れんばかりの霊力は、これからは妾のためだけに、この宿を維持するためだけに注いでもらわねばならぬ。誰にも、一滴たりとも分け与えることは許さぬぞ」
玉藻は僕の唇を奪い、深い接吻と共に、彼女の熱を再び僕の中に流し込んできた。それは昨夜よりもさらに濃密で、逃げ場を完全に塞ぐような重圧。敬語を捨て、本能のままに僕を支配しようとする彼女の言葉は、呪いのように心地よく僕の心に突き刺さる。
「案ずるな、迷い子よ。お主が人間としての己を忘れるまで、何度でも妾が教えてやる。……お主が帰る場所は、この妾の腕の中しかないということをな。さあ、今朝もたっぷりと、妾を悦ばせてたもれ」
外では、昨日まで僕を苦しめていた雨の音が、遠い世界の出来事のように静かに消えていた。
僕は鏡の中の、角の生えた自分の姿をじっと見つめる。
恐怖はある。だが、それ以上に、この美しいあやかしの女にすべてを支配される快感に、僕はもう、抗うことができなくなっていた。
「……玉藻……」
「そうじゃ。妾の名を呼べ。お主の魂が、妾の色に染まりきるまでな……」
玉藻の甘い哄笑が、静まり返った旅館の一室に響き渡った。