テラーノベル
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四月。私は退院した。
帰る家は、どこにもなかった。
「入院費は、全額払い済みだってさ。御影って家から」
最後の診察の日、東雲は書類をめくりながら言った。
「生き残りを放り出したら家の名に傷がつく、ってやつ? ご立派だね」
私は黙って頭を下げた。
私を殺そうとした家のお金で、私の顔は作られた。そう思うと、新しい頬の皮膚が少しだけ突っ張った。
東雲は診断書の封筒を私の手に押しつけた。
佐伯凛、顔面および頸部熱傷、皮膚移植による再建術後。
「医者が直すのは顔まで。名前は、あんたが自分で取り戻しな」
そして、ぶっきらぼうに付け足した。
「月に一回は顔を見せに来ること。来なかったら、こっちから探しに行くよ」
*
凛さんのバッグには、推薦状が入っていた。
根津・村雨家政婦紹介所、村雨トキ様。
入院中、この紹介所の所長から何度も電話があったと、看護師は言っていた。私は一度も出なかった。
声の違う私を、その人はきっと見抜く。
それでも、行かなければならないと思った。
凛さんが何をしに東京へ来たのか。誰が、凛さんを待っていたのか。それを知らないまま、この名前を使い続けることはできなかった。
根津の駅から、細い路地をいくつも曲がった。
散りかけの桜の花びらが、石畳の溝に溜まっている。
木造二階建ての古い家だった。
格子戸の横に、紺色の番傘が立てかけてある。墨で書いた木の看板。村雨家政婦紹介所。
戸を開けると、出汁の匂いがした。
「はいはい、いらっしゃい」
奥の台所から、小柄なおばあさんが出てきた。
白髪をお団子にまとめ、割烹着に丸眼鏡。手に、菜箸を持ったままだった。
「あの」
私は凛さんのバッグを胸の前で握った。
「佐伯、です」
おばあさんの手から、菜箸が落ちた。
「凛ちゃん!」
次の瞬間、私は小さな体に抱きしめられていた。
割烹着から、醤油と石鹸の匂いがした。
「凛ちゃん、凛ちゃん……やっと来たね。電話にも出ないで、どれだけ心配したと思ってんの。事故に遭ったって聞いて、病院に何べん電話したか」
背中を叩く手が、震えていた。
私は何も言えなかった。腕を回していいのかもわからず、ただ立っていた。
ふっと、背中の手が止まった。
おばあさんは、ゆっくり体を離した。
丸眼鏡の奥の目が、私の顔を、首のスカーフを、上から下まで見た。
「……あんた、もう一回しゃべってごらん」
「佐伯、凛です」
低く、かすれた声。
おばあさんの顔から、表情が消えていった。
「声が違う」
私は息をのんだ。
「顔は、事故で変わったって聞いてたよ。でも声は違う。凛ちゃんは、もっと高い声で、ころころ笑う子だった。それに」
おばあさんは、私の腕をつかんだまま言った。
「凛ちゃんは、長野の訛りがどうしても抜けない子だった。電話でいっつも、『所長さん、ずくを出して働くでね』って」
ずく。
あの夜、助手席で彼女は言った。採用、してもらえたんだに。
「あんた、誰だい」
*
台所の小さなテーブルで、私は全部を話した。
去年の十一月二十日の夜のこと。
書斎の声。ブレーキ。坂の途中で拾った女の人。代わりにハンドルを握ってくれたこと。私のコートを着せたこと。燃える車。病院で呼ばれた名前。
途中で、何度も声がかすれた。
おばあさんは、一度も口を挟まなかった。
話し終えたとき、鍋の火はとうに止まっていた。
おばあさんは、しばらく何も言わなかった。
丸眼鏡を外し、割烹着の袖で目元を押さえた。それから、こらえきれないように肩を震わせた。
声を出さずに泣く人だった。
「……あの子はね」
ずいぶん経ってから、おばあさんは言った。
「施設で育って、松本の旅館で十年、女将さんの世話をしながら働いてた。女将さんが亡くなって、旅館も閉めることになって。それで、東京で住み込みの家政婦になりたいって、うちに電話してきたんだよ」
壁に、手書きのカレンダーが掛かっていた。
去年の十二月一日に、赤い丸がついている。「凛ちゃん引っ越し」。
「御影のお屋敷の面接もね、うちが紹介したんだよ。大奥様が、十二月から住み込みで一人欲しいって。あの子、面接の前の晩に電話してきてさ。『所長さん、お屋敷ってどんな靴で行けばいいずら』って。いつもの運動靴で行きなって、私は言ったんだ」
おばあさんは、少しだけ笑った。泣き笑いだった。
「面接が済んだら、その足でうちに寄るはずだった。夕飯、あの子の好きな高野豆腐を炊いて待ってたんだよ。……来なかったけどね」
おばあさんは、天井を見上げた。
「二階の部屋、もう用意してあったんだ。布団も干して、茶碗も新しいのを買って。娘が来るみたいでさ、柄にもなく浮かれてたよ」
私は、テーブルの上で両手を握りしめた。
「ごめんなさい」
かすれた声しか出なかった。
「私が、あの人を乗せなければ。私が震えていなければ。あの人は、いまここで」
おばあさんは、首を横に振った。
「あんたが殺したんじゃない。殺そうとした奴がいるんだろ」
それから、立ち上がって私の前に来た。
小さな、ひび割れた両手が、私の頬をはさんだ。作り直したばかりの、まだ自分のものになりきらない頬を。
「村雨トキだよ。覚えときな」
まっすぐに、私を見た。
「凛ちゃんの名前で生きるなら、凛ちゃんが恥ずかしくない仕事をしな。あの子は、どこに出しても恥ずかしくないプロだった。あんたもそうなりな」
私は、うなずいた。
トキさんの手のひらは、出汁の匂いがした。
その夜から、私は紹介所の二階に住むことになった。
凛さんのために干してあった布団で眠り、凛さんのために買ってあった茶碗でご飯を食べた。
凛さんの通帳には、手をつけないと決めた。
これは借りているのだ。名前も、布団も、茶碗も。
*
三日後の朝、トキさんが台所のテーブルに週刊誌を置いた。
「見なくていいなら、見なくていいよ」
私は表紙をめくった。
見開きの写真に、三人が写っていた。
御影邸の庭で、蒼真が笑っている。その腕に、淡いピンクのワンピースの麗奈。二人の間に、目元をぼかされた小さな男の子。
「イクメン社長、元秘書と再婚。『陽翔に、新しいママを』」
この四月に入籍。
新婦は聖ルチア女学院大学を卒業した才媛で、亡き前妻に代わり、幼い長男の母になる決意を語った。
写真の中の陽翔は、ぴょんたを抱いていた。
目元はぼかされていても、わかった。あの子は、笑っていなかった。
私が死んで、五か月。
私の名前が墓に彫られて、三か月。
「……大丈夫かい」
トキさんが、湯呑みを私の前に置いた。
私は週刊誌を閉じ、表紙を下にしてテーブルに伏せた。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
けれど、泣いても陽翔の隣には立てない。
台所の黒い電話が鳴った。
トキさんが受話器を取り、「はい、村雨でございます」と、よそ行きの声を出した。
相手の声は聞こえない。
けれどトキさんの背中が、少しずつ固くなっていくのがわかった。
「……はい。……ええ、本人はこちらにおります。……かしこまりました。申し伝えます」
受話器を置いて、トキさんは振り返った。
丸眼鏡の奥の目が、私をまっすぐに見ていた。
「御影の大奥様から電話だよ。『佐伯さんの体が治ったら、約束どおり住み込みで来てもらう』ってさ」
コメント
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第6話、めちゃくちゃ沁みた……。「ずくを出して働くでね」って言う凛さんの訛りを知ってるトキさんに、声で別人って見抜かれるシーン、ゾッとしたし切なかったです。トキさんが泣きながら「あの子の好きな高野豆腐を炊いて待ってたんだよ」って言うところで、私も一緒に泣きそうになりました。最後に御影の大奥様から電話が来て、「約束どおり住み込みで来てもらう」って……続きが気になりすぎる。名前を借りて、遺された布団で眠る覚悟、しっかり受け止めました。次話も待ってます🌙
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
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