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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「行きます」
受話器を置いたトキさんに、私はそう答えていた。
考える前に、口が動いていた。
「正気かい」
トキさんは丸眼鏡を押し上げた。
「あんたを殺そうとした旦那の家だよ。その旦那の新しい嫁と、葬式を二日で済ませた姑のいる家だ」
「わかっています」
私は伏せたままの週刊誌に、手のひらを置いた。
「あの家には、陽翔がいます。あの子は法律の上では、まだ私の子です。でも、いまあの子のそばにいられる方法は、これしかありません」
それから、もう一つ。
「三人の嘘を、表に出したいんです」
夫は、私を殺す計画を立てた。
その愛人は、電話の向こうで泣きながら、それを聞いていた。
そして義母は、DNAも調べさせずに、二日で私を灰にした。凛さんの体を、私の名前で。
「あの家のことなら、私は全部知っています。どの引き出しに何が入っているか。誰が何時に起きて、何時にお風呂に入るか。階段のどの段が鳴るか」
トキさんは長いこと、黙って私を見ていた。
それから、ふう、と息を吐いた。
「家政婦ってのはね、その家の秘密を墓まで持ってく仕事なんだよ」
割烹着の紐を、きゅっと締め直す。
「あんたは逆をやろうってんだね。……いいよ。どうせやるなら、中途半端は許さない。まずは、あんたの中の『奥さん』を消すところからだ」
*
最初の夜、トキさんは私の手元をじっと見ていた。
「箸を持ってごらん」
左手で持っていた。
二十九年間、ずっとそうしてきた。
「凛ちゃんは右利きだよ。履歴書の字でわかるだろ。あんたの旦那は、あんたが左利きだって知ってる。左手は封印しな」
その日から、私は右手で生活した。
右手で箸を持ち、右手で包丁を握る。
キャベツの千切りは、最初の三日、太さがまるで揃わなかった。指を二度切った。
右手で字を書く練習もした。
トキさんの古い帳簿の裏に、佐伯凛、佐伯凛、佐伯凛と、毎晩百回ずつ書いた。最初はみみずが這ったような字だった。一週間で、どうにか読める字になった。
私の左手の字とは、似ても似つかない字だった。それでいい、と思った。
茶封筒も一枚、用意した。
表に、右手で「あかつき園」と書く。凛さんの名前で働いて受け取るお金は、私のものではない。毎月、給料の一部をこの封筒に入れていく。全部終わったら、凛さんが育った場所へ届ける。
トキさんは封筒の字を見て、「まだ下手だね」と笑い、それから仏壇の引き出しにしまってくれた。
料理も、覚え直した。
「凛ちゃんがね、手紙と一緒にレシピを送ってくれてたんだよ。旅館の賄いで、女将さんが好きだったんだって」
トキさんが茶箪笥の引き出しから出してきたのは、便箋の束だった。
丸い、右上がりの字。凛さんの字だ。
おやき。野沢菜の油炒め。くるみ味噌。
小麦粉を練って、野沢菜の餡を包む。焼いてから蒸す。くるみを擂り鉢で擂って、味噌と砂糖でのばす。
便箋の端には、ところどころ小さな書き込みがあった。「女将さんは甘いのが好き」「ずくを出して擂ると、なめらかになる」。
私はその字をなぞるようにして、一つずつ作った。
台所に、知らない土地の匂いが立った。
「訛りのことは、聞かれたらこう言いな」
トキさんは、蒸し上がったおやきを割りながら言った。
「事故のあと、抜けました。頭を打って、しゃべり方が変わったってね。医者がそう言ったことにすりゃいい。聞いたほうも、それ以上は突っこめないよ」
それから、白い木綿の手袋を一組、テーブルに置いた。
「左手のその傷、旦那は見たことあるんだろ」
私は人差し指の古い傷を、右手で覆った。
「手荒れがひどいってことにして、いつもこれをはめときな。家政婦の手袋なんて、誰も気にしやしないよ」
*
四月の終わりの夜、私は紙を一枚、テーブルに広げた。
右手で、一行ずつ書いた。
右手で書き、右手で切る。
甘酒の卵焼きを作らない。
ねんねの舟を歌わない。
ムギに、口笛と左手の合図を使わない。
器を見ても、銘を口にしない。
蒼真を「蒼ちゃん」と呼ばない。お義母さまを「お義母さま」と呼ばない。
最後の一行を書いたとき、ペン先が少し震えた。
陽翔に、ママだと言わない。
トキさんは何も言わず、裏庭の七輪に火を起こしてくれた。
私は紙を折り、炭の上にのせた。
端から黒くなり、丸まり、炎が字を一つずつ食べていく。
「卵焼き」の字が消え、「ねんねの舟」が消え、最後に「ママ」が消えた。
全部覚えている。燃やしても、消えはしない。
燃やしたのは、守れなかったときに言い訳をしないためだった。
*
翌朝、私は洗面所の鏡の前に立った。
腰まで伸びた黒髪を、一つにまとめる。
結婚してから、ずっとこの長さだった。蒼真が、長いほうが似合うと言ったから。陽翔が、寝る前にこの髪の先で遊ぶのが好きだったから。
トキさんの裁ち鋏を、右手に持った。
耳の下で、髪をつかむ。
鋏を入れる。じょき、と重い音がした。
一束、床に落ちた。
手が止まりそうになった。
陽翔の指が、この髪をくるくると巻いていた夜を思い出す。「ママのかみ、ながいね」と笑った声を。
私はもう一度、鋏を入れた。
もう一度。もう一度。
鏡の中で、知らない顔の女の髪が、少しずつ短くなっていく。
左耳の後ろには、小さなほくろが二つある。サイドの髪を少し長めに残し、ほくろと首の火傷痕が隠れるように整えた。
最後の一束が、足元に落ちた。
黒いショートボブの女が、鏡の中から私を見ていた。
切れ長の目。高い頬骨。首には、紺のスカーフ。
澪の最後の部分が、床の上で黒く広がっていた。
トキさんが、黙って箒を持ってきた。
新聞紙に髪を掃き集め、丁寧に包んで、輪ゴムで留める。
「いい顔になった」
それだけ言って、トキさんは台所へ戻っていった。
*
その日の午後、台所の電話が鳴った。
「はい、村雨でございます。……はい、佐伯でございますね。少々お待ちくださいませ」
トキさんが受話器を押さえて、目で私を呼んだ。
口の形だけで言う。新しい奥様。
私は受話器を受け取った。
「佐伯さん? 御影の家内です」
甘い声だった。語尾が少し上がる、鼻にかかった話し方。
社長室の前で、何度も聞いた声。花園さん。
「お義母さまがあなたを雇うって決めたみたいなんだけど、あの家のことは、これからは私が決めることになったの。だから、家政婦は私が選びます」
受話器の向こうで、長い爪がテーブルを叩く音がした。
「改めて面接しますから。来週の金曜、お屋敷のほうに来てくださる? 駅には、運転手を迎えにやるわ」
「……かしこまりました、奥様」
私の口は、そう答えていた。
奥様。
あの家で、私が三年間呼ばれてきた立場の名前を、私は初めて、他の女に向かって口にした。
受話器を置いた手のひらに、汗がにじんでいた。
トキさんが、湯呑みにほうじ茶を注いでくれた。
*
面接の日は、朝から晴れていた。
駅前のロータリーで黒い車に乗り、七曲り坂を上った。
坂を上りきると、見慣れた黒い鉄の門が見えてくる。蔦の絡んだ石の門柱。その向こうに、洋館の赤い屋根。
車を降りた私の足は、地面に吸いつくように動かなかった。
そのとき、門の向こうから、犬の吠える声が聞こえた。
低くて、少しかすれた、聞き慣れた声。
ムギだった。
コメント
1件
第7話、読了しました。トキさんの下で「佐伯凛」として生まれ変わるための準備が、一つひとつ丁寧に描かれていて、じんときました。特に髪を切る場面は、陽翔の記憶と隣り合わせの決断で、胸が締め付けられました。「燃やしたのは言い訳をしないため」という一文に、彼女の覚悟が凝縮されている気がします。ラスト、ムギの声——あの家の空気が、読み手にも立ち込めてくるようでした。続きが気になります。