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一ヶ月が、過ぎた。
権田は、来なかった。塩尻峠の二十人は、峠に残ったままだった。道は、塞がれたままだった。
「一ヶ月で、話をすると言った」大畑が言った。
「言いました」
「来ない」
「来ません。たぶん、権田さんは、東京で、別のことをしてる。名古屋の御殿か。鷺沼か。瑠衣が、何かを」
要は、それ以上、言わなかった。わからないことを、言っても、仕方がなかった。
市は、回っていた。木曽と隣村の間で。新しい三冊で。米屋の米は、取り付けの後、少し戻っていた。御殿の二十人が、証で味噌を買い続けていたからだ。二十人は、週に一度、峠の小屋に下りてきた。証を持って。味噌と、薪と、米を買って、帰った。証は、小屋から、二十人の手に渡り、二十人の手から、小屋に戻った。小さい循環だった。でも、回っていた。
封鎖する側と、される側の間で、金が回っている。要は、それを、不思議だと思った。権田は、知っているのか。知っていて、放っているのか。
*
一ヶ月と十日目、諏訪から、人が来た。
灯だった。十七歳の娘は、雪の山を、封鎖の十人を避けて、三日歩いてきた。
「道じゃないところを、歩いた」灯は言った。「ばあちゃんが、『道は塞げても、山は塞げない』って」
要は、灯を見た。痩せていた。靴が、破れていた。
「諏訪は」
「回ってる。湖で。でも、湖だけだと、米がない。魚と芋だけ。ばあちゃんは、『春までは持つ』と言ってる」
「下流は」
「知らない。諏訪からは、見えない」
灯は、懐から、紙を出した。蝋で封じてあった。佐久間の印。
要は、蝋を割った。中には、一行。
『諏訪の台帳三冊、無事。湖の発行、三百二十枚で停止。合言葉、百十一』
百十一。甲府の会長の、最初の日の、丸の数。要と、会長と、佐久間しか知らない数。佐久間は、甲府の台帳の一冊を、預かっていたから。
「本物だ」要は言った。
「当たり前」灯は言った。「私が、持ってきた」
「君が持ってきても、途中で、誰かが書き換えたかもしれない。蝋と、合言葉で、確かめた。九条だ」
灯は、少し、笑った。
「要さん、封鎖されてても、仕組みの話をする」
「封鎖されてるからだ」
*
その夜、要は、つむぎに、灯の話をした。
「道は塞げても、山は塞げない。佐久間さんが、言ったそうだ」
「山を、人が歩く」つむぎは言った。
「歩く。三日かかる。靴が破れる。でも、歩ける」
「じゃあ、下流にも、歩ける?」
要は、考えた。下流への道は、川沿い。十人が塞いでいる。川沿いを避けるなら、山を越える。木曽の山は、険しい。冬は、雪が深い。
「歩ける。でも、危ない」
「危なくても、歩ける人は、いる」
「誰が」
「私」つむぎは言った。
要は、つむぎを見た。
「君は、三日、眠らなかった。台帳を、頭から書き直して」
「もう、眠った。十日前」
「山は、台帳より、危ない」
「知ってる。でも、下流に、ばあさまがいる。顔を知ってる。下流に、二百枚の組合の証がある。下流の壁に、番号がある。下流が、どうなってるか、誰も知らない。知らないままだと、道が開いたとき、台帳が合わない。合わない分を、組合の蔵から出す。でも、蔵は、四百枚しかない。下流が、どれだけずれてるか、今、知っておけば、ずれを、小さくできる」
「それは、仕組みの話だ」
「要さんの話を、私がしてる」つむぎは言った。「おかしい?」
要は、笑った。笑って、笑うのをやめた。
「……一人で、行かせない」
「誰が、一緒に」
「僕が」
「要さんは、市の帳面つけだ。いなくなったら」
「ひかりと、孫と、大畑さんがいる。三冊は、三人で書ける。僕がいなくても、回る。それが、侵入前提だ。去年、大畑さんに、そう言った」
つむぎは、長い間、要を見ていた。
「……要さんの顔、変わった」
「どう変わった」
「仕組みの人の顔じゃない。歩く人の顔」
*
三日後、要とつむぎは、山に入った。
雪が、深かった。道は、なかった。灯が、諏訪から来た道を、逆に辿った。それから、川沿いの、封鎖の十人の、見えない場所から、山を回った。
二日目の夜、尾根で、火を焚いた。
「要さん」つむぎが言った。「私、三百人、覚えてる」
「三百人?」
「下流の村の人。去年の冬、ばあさまの村で、証を受け取った人。塩屋で、紙漉きの家で、水車で、顔を見た。三百人くらい。全員の、顔と、名前と、去年の冬、何枚受け取ったか」
「それが、どうした」
「下流の台帳が、もし、なくなってたら。盗まれてたら、燃えてたら。私の三百人で、書き直せる。四週間分じゃなくて、一年分」
要は、火を見た。
「……君は、台帳だ」
「違う。台帳は、紙。私は、人」
「人の形をした、台帳だ」
「要さん」つむぎは言った。「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、いい」
火が、はぜた。尾根の下に、川の音がした。下流の村は、川の向こう。明日の昼には、着く。
要は、ノートを開かなかった。ノートは、峠の小屋に置いてきた。ひかりに預けた。ロードマップは、ひかりが持っている。
要が持っているのは、一本の割符と、一ノ瀬の印と、つむぎの三百人だった。
コメント
1件
つむぎが「三百人、覚えてる」って言ったところ、ぞわっとしましたね。人の顔と名前と数字を、台帳ごと記憶している——それって彼女自身が生きた記録装置になっていることで、要が「人の形をした台帳だ」と返すのも、この物語の仕組みと人間の関係をぎゅっと凝縮した言葉だなと。雪の山を、封鎖を避けて歩く決断にも説得力があって、静かだけど熱い話でした。続きが気になります。