声にならない声が喉から漏れた瞬間
俺の指先が急に冷たくなった。
体中の血の気が引いていくのがわかる。
その、禿げ上がった頭と特徴的な鼻筋は、間違いなく───
「どうした?」
尊さんが不思議そうな顔でこちらを見る。
けれど、説明できるほど冷静ではなかった。
「……っ、いや…」
喉がひきつく。
胸の奥から、黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。
かつて何度も俺を徹底的に潰そうとしてきた男。
退職に追い込んできた張本人。
この前の飲み会でバッタリ会ってしまったときは、まだ前の会社で働いているのだと思ったが
いつの間に転職していたのか……。
あのときは気が動転していてちゃんと見れていなかったけど
高そうなスーツや靴を身につけていた気もする…
尊さんが俺の表情の変化に気づき、顔を覗き込んできた。
その鋭い眼差しに、隠し通すことはできないと悟る。
「なんだ、知ってる奴なのか?」
「…ま、前の会社の…上司、なんです……」
震える声で答えるのが精一杯だった。
夜の冷たい風が背中に吹きつけ、まるで体が凍りつくようだった。
「どうした、顔色悪いぞ」
尊さんの眉間に皺が寄るのが見て取れる。
気遣いの色が滲む瞳に少し救われた気持ちになったものの
脳裏には過去の嫌がらせや叱責の数々がフラッシュバックしてきて、気付くと地面に膝を着いていた。
「…だい、じょぶです……す、すみません…っ」
自分でも情けないと思いつつ、呼吸が乱れていく。
「本当に大丈夫か……?」
尊さんがしゃがみ込んで、慌てて俺の体を支えてくれるが
震えは一向に収まらず、涙腺が緩むのが分かった。
(もう終わったはずなのに…なんでこんな苦しいんだ……)
過去は過去だと割り切りたかった。
前を向いて新しい人生を歩んでいるはずなのに、現実が今も牙を剥いて追いかけてくる。
あの男がまた同じことをしようとしていると想像するだけで、吐き気が込み上げてくる。
「おい、恋」
尊さんの呼びかける声が、遠くに聞こえた。
暗闇が広がる前に最後に見たものは──
心配そうに俺を見つめる尊さんの顔だった。
次の瞬間、世界が歪み始め、平衡感覚を失った。
耳元で遠くなる尊さんの声を聞きながら、身体が崩れ落ちていくのを感じる。
(あぁ……また迷惑かけちゃう……ごめんなさい……)
思考が混濁し意識が霞んでいくなか、強引に抱き寄せられる感触と共に
「恋!」
という尊さんの叫び声だけが鮮明に鼓膜に焼きついた─────。
◆◇◆◇
そして、ぼんやりとした光の中で重い瞼を開いた。
目を覚ますと、まず鼻孔をくすぐる料理の匂いがした。
ゆっくり視線を巡らせると、そこには見慣れた天井と壁紙があった。
(あ…ここ……尊さんの家……)
自分がいる場所を認識して、申し訳なさと共に胸が締め付けられる。
ソファに横たわっている俺の体には、厚手のブランケットが掛けられていた。
おそらく意識を失ったあと、尊さんが運んでくれたのだろう。
その優しさに、感謝と申し訳なさが募る一方で、同時に温かいものが心に溢れてきた。
身体を起こそうとするが、クラクラする感覚に襲われ、再びソファに沈み込む。
それでもなんとか上半身だけ起き上がり、周囲を見渡すと
「……起きたか」
背後から聞こえてきた低い声に、びくりと振り向くとエプロン姿の尊さんが立っていた。
手にはさえ箸を持っていて、どうやら何か作っている最中のようだ。
「す……すみません!俺……」
「倒れたんだよ、まったく……」
呆れたように言いながら近づいてくる尊さんは、エプロン越しでもわかるほど
腕に血管を浮かび上がらせていた。
きっと重い俺を担いでここまで運んでくれたんだろうと考えると、また申し訳なくて俯いてしまう。
「体調はどうだ?」
「…だ、大丈夫です……ちょっとクラっとしただけで……」
嘘だと見破られているであろうことは承知していたが、これ以上心配させたくない一心で笑顔を作った。
しかし尊さんは、じっと俺の顔を覗き込み
真剣な眼差しを向けてきた。
逃れられない圧力を感じてしまい
視線を逸らそうとするも許してもらえず、逆に両肩を掴まれてしまう。
「笑えないときに無理に笑うもんじゃない」
「…!…尊さん……でも…尊さんに迷惑かけちゃいましたし…すみません…」
「…もう謝るな、急に倒れるからビックリはしたが…お前の反応で良い関係値じゃなかったということはわかった」
「……」
「無理に話せとは言わないが、吐き出した方が楽になることもある。恋はどうしたい?」
「……それは」
言葉に詰まり目線を彷徨わせる俺に対して、尊さんは焦らず待ってくれていた。
(尊さんなら、引いたり責めたりせず、ちゃんと聞いてくれる)
「過去のこと、なんですけど…聞いてくれますか」
「ああ」
尊さんの言葉を信じ、俺は重い口を開き始めた。
「……彼は……前の会社で部署をまとめる立場の人で…俺の直属の上司だったんですけど、その……教え方が下手というか……いや、違いますね……」
唇を噛みながら続きを語る勇気が出ずにいると、尊さんの大きな手が優しく頭に置かれた。
それだけで不思議と落ち着きを取り戻し、深呼吸をすることができた。
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