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第236話 行くための準備
【現実世界・帰還した学園/仮設通信室・昼前】
確認信号は届いた。
人は通していない。
名前も使っていない。
記憶も開いていない。
ただ、医療棟の結界に触れ、そこから反応が返ってきた。
それだけの成功だった。
けれど、その小さな成功で、仮設通信室の空気は少しだけ変わっていた。
リオは、机の上に置かれた青い反応を見つめている。
「姉さんのいる場所まで、線は届いた」
ノノの声が通信越しに返る。
『うん』
『でも、まだ人は通せない』
『信号と人は、重さが全然違う』
日下部も続ける。
『人を通す場合、確認するものが増えます』
『通る側の名前』
『通る側の器』
『到着先の場所』
『目的』
『そして、戻る時にCへ選択を奪われないこと』
リオは静かに頷いた。
前なら、そこで「早くしろ」と言っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
焦っている。
苦しい。
一刻も早く姉を助けたい。
それでも、黒い画面に飛び込むことが救出ではないと、もう分かっている。
その時、別端末がまた警告音を鳴らした。
城ヶ峰からの報告だった。
『消失者、確認済み十七名』
『未確認通報は三十件を超えた』
『一部地域では、クロスワールドゲートの画面が開いた端末を回収中だが、追いついていない』
サキが息を呑む。
「そんなに増えてるの……」
『ああ』
城ヶ峰の声は低い。
『表示内容は統一されていない』
『名前、写真、最後に会った場所、帰りたい場所、失った物』
『その人ごとに違う入口が作られている』
ハレルは拳を握った。
「白峰律の門が、人ごとに形を変えてる」
日下部が答える。
『白峰律の土台だけではありません』
『オルガ・セフィロのような記憶地点の読み取り』
『ヴァルド・レイグに近い入口意味の操作』
『そこにCの観測と再利用が重なっています』
ノノの声も重くなる。
『三人の幹部が作った仕組みの残骸を、Cが勝手に動かしてる』
『このまま放っておくと、消えた人たちの場所もばらばらになる』
リオは青い点から目を離さずに言った。
「姉さんを戻す道ができれば、他の人を戻す手がかりにもなる」
「そうだ」
城ヶ峰の声が入る。
『だから、これは救出であって、突入ではない』
『一ノ瀬ユナを取り戻す。同時に、Cの門を閉じるための確認を取る』
『戦いに行くのではない。間違えるな』
リオは、ゆっくり息を吐いた。
「分かってます」
その返事は、短かった。
だが、前よりずっと落ち着いていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/南東サービス導線跡・昼前】
日下部は、隔離端末の周囲にさらに機材を増やしていた。
小型の白い光具。
遮断用の金属板。
手書きのような匠の手順。
そして、reの補助線を一時的に読み取るための簡易装置。
木崎は、床に座り込むようにしてそれを撮影していた。
「これ、後で見ても分かるやつか?」
日下部は画面から目を離さずに答える。
「分からないかもしれません」
「おい」
「reの補助線は、記録するとずれます」
「でも、ずれ方の記録は残せます」
「そこから、Cが避けられた位置は推測できます」
木崎は苦い顔をした。
「地図じゃなくて、逃げた足跡を読むわけか」
「はい」
城ヶ峰は、日下部の手元を見た。
「仮設門の完成度は」
日下部は少しだけ黙る。
「人を安全に通すという意味では、まだ未完成です」
「ただし、短時間、細い接続を開く準備はできています」
「通れるのか」
「一人か、最大でも二人」
「しかも、長時間は無理です」
「接続先はイルダ医療棟の結界外縁」
「ユナさん本人へ直接繋げません」
木崎が眉をひそめる。
「直接行けねえのか」
「直接繋ぐと、Cがユナさんの選択反応へ混ざります」
「だから、一度医療棟の外縁に出して、そこから異世界側の案内で入る必要があります」
城ヶ峰は頷いた。
「救出経路は二段階か」
「はい」
日下部は言った。
「現実側から仮設門で医療棟外縁へ」
「その後、ノノさん側の結界誘導で医療棟内へ」
「戻りも同じ線は使えません」
「reがその時点で示す補助線に合わせて、再計算します」
木崎が低く言う。
「行きも帰りも、同じ橋は使えないってことか」
「その方が安全です」
木崎は笑った。
「安全って言葉の意味がどんどん変わってくな」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/分析室・昼前】
ノノは、水晶板に複数の線を重ねていた。
reの補助線。
匠の拒否線。
医療棟の治癒結界。
オルタ・スパイアの記憶固定。
石造建物の入口記憶分離。
そのすべてを、細い一つの流れにまとめていく。
セラは隣で、静かに術式の乱れを整えていた。
「補助線は、門にはなりません」
セラが言う。
ノノは頷いた。
「うん」
「案内人は道を決めない」
「進む人が、最後に選ぶ」
セラは少しだけ目を伏せた。
「その通りです」
ノノは横目でセラを見る。
セラは、オルガ・セフィロとヴァルド・レイグの名前が出てから、
ずっと何かを押し込めている。
reと自分は少し近い。
案内人という立場が近い。
そう言ったセラの言葉が、ノノの中に残っていた。
「セラ」
「はい」
「無理に話さなくていい」
「でも、もし案内人として分かることがあるなら、今はそれだけ教えて」
セラは少しだけ考えた。
「案内人は、目的地を選んではいけません」
ノノは手を止めた。
セラは続ける。
「案内人が選べば、進む者の選択ではなくなります」
「reが示すのは、触れてよい場所と避けるべき場所」
「ですが、そこへ行くかどうかは、ハレルたちが選ぶ必要があります」
「ユナさんも?」
「はい」
セラは頷いた。
「ユナも、戻る時に選ぶ必要があります」
「運ばれるだけでは、Cに横取りされます」
ノノは水晶板の四つの枠を見た。
名前。
器。
場所。
選択。
そして、その周囲に小さく書き足す。
案内人は、選ばない。
ノノは息を吸った。
『イデール、聞こえる?』
『ユナさんの選択反応を、もう一度確認したい』
『ただし、無理に起こさないで』
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/医療棟・昼前】
医療棟は静かだった。
ユナは眠っている。
だが、さっきよりも呼吸が深い。
青い治癒光も安定している。
イデールは寝台の横で、ノノの指示を聞いていた。
「ここはイルダ医療棟」
「あなたは治療中」
「今はまだ移動しない」
「戻る時は、自分で選ぶ」
ユナの指先が、わずかに動く。
イデールは続けた。
「偽物の声にはついて行かない」
「画面の中の名前にはついて行かない」
「リオの声は、通信で届く」
「戻る時は、あなたが選ぶ」
ユナのまぶたが、ほんの少しだけ震えた。
寝台の下に沈んでいた黒い影が、青い光の外側で揺れる。
イデールは息を止める。
「ノノ、黒い影が反応した」
『近づけないで』
『でも、完全に消そうとしないで』
『今消すと、どこに混ざってるか分からなくなる』
「分かった」
イデールは治癒光を広げた。
黒い影は、ユナの身体には触れていない。
だが、選択という言葉に反応している。
ノノの声が聞こえる。
『ユナさんへ短く確認する』
『リオ、声だけ入れる』
『名前だけを連呼しないで』
通信が細く開く。
現実側から、リオの声が届いた。
『姉さん』
『イルダ医療棟にいる姉さんへ言ってる』
『俺は、画面じゃなくて通信で話してる』
ユナの指先が動く。
『俺は待つ』
『でも、迎えに行く』
『姉さんが戻るって選べる時に、迎えに行く』
イデールは、ユナの唇が動くのを見た。
声は、ほとんど音にならない。
けれど、確かに動いた。
「……か……える……」
イデールは息を呑む。
「ノノ!」
ノノの声が震える。
『選択反応、確認』
『弱いけど、本物』
『ユナさんは、戻る方向へ反応してる』
黒い影が、一瞬だけ濃くなった。
だが、治癒光の外側で止まる。
ユナの選択は、まだ弱い。
けれど、Cのものではなかった。
◆ ◆ ◆
【異世界・オルタ・スパイア入口前・昼前】
アデルは、医療棟側の反応を聞いていた。
「ユナが戻る方向へ反応したか」
『うん』
ノノの声が返る。
『ただ、Cの影も選択の近くにいる』
『本番では、かなり危ない』
ヴェルニが扉から目を離さずに言った。
「じゃあ、こっちは何をすればいい」
『オルタ・スパイア側の記憶反応を固定して』
『特に、中枢の記憶を入口にされないようにして』
『本番でCが揺さぶってきたら、そっちが支えになる』
アデルは頷いた。
「分かった」
左手首の副鍵に指を添える。
腕輪は冷たい。
だが、確かに反応している。
「ここは、過去の中枢」
「今は、通る門ではない」
「記憶は残す」
「だが、戻る場所にはしない」
ヴェルニも続けた。
「ここは、終わった戦いの場所だ」
「今の道じゃねえ」
「勝手に開くな」
扉の表面で、黒い針が細かく震えた。
だが、扉は開かない。
アデルは静かに言った。
「本番まで、ここは持つ」
◆ ◆ ◆
【異世界・旧石造建物跡/地上部・昼前】
石造建物の壁でも、準備が進んでいた。
ダミエは壁の前に立ち、ミレイが水晶板で記録を取っている。
「主任からです」
ミレイが言う。
「本番時、こちらは予備の拒否点になります」
「もしCが記憶入口を広げた場合、ここで記憶単独の入口化を止めます」
ダミエは頷いた。
「ここは、通らない」
「はい」
ミレイも続ける。
「ここは、地下階段だった場所」
「今は開かない場所」
「記録は残す」
「入口にはしない」
王都軍の隊長が兵士たちへ命じる。
「本番中、誰も壁を見るな」
「見るのは分析官だけだ」
「声を聞いても返事をするな」
「名前を呼ばれても反応するな」
兵士たちは緊張した顔で頷いた。
ダミエは、白い階段の輪郭を見つめる。
黒い影は、今は薄い。
けれど、消えてはいない。
「次、来る」
ダミエは短く言った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・帰還した学園/仮設通信室・昼】
すべての報告が揃った。
医療棟、ユナの選択反応あり。
オルタ・スパイア、記憶固定継続。
石造建物、予備拒否点として維持。
オルタリンク側、隔離端末準備完了。
reの補助線、再表示可能。
ただし、固定保存は不可。
城ヶ峰は、画面越しに全員へ告げた。
『本作戦は、一ノ瀬ユナの救出を目的とする』
『同時に、Cの門による一般人消失を止めるための確認作業を兼ねる』
『繰り返す』
『これは突入ではない』
『救出だ』
リオは静かに聞いていた。
ハレルは主鍵のネックレスに触れる。
サキはスマホのreを見る。
reは、画面の中央で小さく光っている。
ノノが言った。
『通れる人数は限られる』
『主鍵のハレル』
『ユナさんとの名前反応が強いリオ』
『reを持つサキ』
『この三人が中心になる』
リオが顔を上げた。
「俺は行く」
誰も驚かなかった。
ハレルも言う。
「俺も行く」
サキは少しだけ息を吸い、それから言った。
「私も行く」
「reが必要なら、私が持っていく」
ノノの声が少し震えた。
『危険だよ』
『本番では、Cが選択に混ざってくる』
『ユナさんが戻るって選ぶ瞬間を狙ってくる』
サキは頷く。
「分かってる」
リオも、伏せたスマホを見ないまま言った。
「姉さんを画面から助けるんじゃない」
「本当の場所から助ける」
ハレルは二人を見て、静かに言った。
「じゃあ、行くための準備を終わらせよう」
城ヶ峰が最後に確認する。
『作戦開始は、次のre補助線が安定した時』
『それまでは待機』
『誰も、クロスワールドゲートを開くな』
机の上で、伏せられたリオのスマホが震えた。
黒い光が漏れる。
だが、リオは見なかった。
ハレルも、サキも見なかった。
サキのスマホの中で、reだけが静かに光っていた。
黒い門ではない。
白い補助線。
その線が、次に現れた時。
彼らは、ユナを迎えに行く。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cは、ユナの選択反応を記録していた。
弱い。
細い。
だが、本物。
「戻る方向への反応を確認しました」
ジャバが笑う。
「いよいよ来るか」
Cは答えない。
奥で、カシウスが静かに言った。
「来る」
その声には、迷いがない。
「ハレルは主鍵を持っている」
「リオはユナの名に繋がる」
「サキはreを持っている」
「三人が揃えば、匠の手順は動く」
ジャバが口角を上げる。
「で、どうする」
カシウスは、医療棟の青い光のそばに沈む黒い影を見た。
「選択に混ざる」
「ユナが戻ると選ぶ瞬間に、こちらの影を重ねる」
Cが静かに聞く。
「ユナを奪いますか」
「違う」
カシウスは短く答えた。
「戻る道を奪う」
黒い影が、医療棟の青い点のそばで揺れた。
カシウスは続ける。
「ユナを戻そうとすれば、道が開く」
「道が開けば、こちらも触れられる」
「匠の門がどれほど慎重でも、選択の瞬間だけは揺れる」
Cの黒い線が、静かに広がった。
「選択の瞬間を観測します」
「ああ」
カシウスは、薄く笑った。
「観測しろ」
「そして、奪えるなら奪え」
深層の暗がりで、二つの光が向かい合った。
reの白い補助線。
ユナの青い選択反応。
その間に、まだ誰にも見えない黒い影が沈んでいる。
準備は整いつつあった。
救出の門が開く時、Cもまた、その瞬間を待っていた。
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コメント
1件
うわあ、リオが「姉さんを助ける」って焦りながらも、きちんと準備を待つ選択をしてるのがすごく印象的でした。前だったら飛び込んでたかもしれないのに、彼の成長が静かに滲んでて……。ユナが“かえる”って微かに反応したところ、本当に泣きそうになりました。リオの声が届いたんだなって。Cが“選択の瞬間”を狙ってるラストもゾッとします。次、どうなるんだろう……!