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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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「理由を、伺ってもいいですか」
私は、椅子から立ち上がった。
柏木室長は、手帳を開かなかった。
「社長の指示です」
眼鏡越しでも、わかった。三秒。四秒。
シルバーフレームの奥の目は、揺れなかった。
一本の線。
室長は、本当のことを言っている。少なくとも、室長自身はそう信じている。
「……わかりました」
室長は一礼して、会計士たちの待つ会議室へ出ていった。
*
社長が四十三階に戻ってきたのは、十二時四十分だった。
並べた二つの弁当の蓋を、私は開けなかった。
「社長。私を監査から外すように、室長に指示されたんですか」
箸を取りかけた社長の手が、止まった。
「そんな指示は、出していない」
私は、社長の顔を見ていた。
砂嵐。
ざらざらとした灰色の粒が、切れ長の目の上で、静かに揺れている。
室長は、社長の指示だと言った。一本の線で。
社長は、出していないと言った。砂嵐で。
どちらかが、間違っている。
本当のことを言っている顔は、片方しか見えない。見えるほうを信じれば、嘘をついているのは社長だということになる。
「室長は、嘘をついていませんでした」
「わかっている」
社長は、箸を置いた。
「柏木は、嘘をつけない男だ」
その言葉も、砂嵐の向こうから聞こえた。
社長は立ち上がり、内線で室長を呼んだ。
執務室の扉が閉まった。私は、扉の横の自分の机で、冷めていく弁当を見ていた。
扉の向こうの声は、聞こえなかった。
弁当の蓋の上で、割り箸の袋が、少しずつ反り返っていった。
十五分後、扉が開いた。
柏木室長が、私の机の前で立ち止まった。
「瀬名さん。監査に、入っていただきます」
室長は、手帳を閉じたまま言った。
「社長のお言葉を、私が取り違えていたようです」
一本の線。
室長は、今、それを本当だと信じている。十五分前に信じていたことと、反対のことを。
社長が、最初に何と言ったのか。扉の向こうで、何と言ったのか。
私に確かめられるのは、室長の顔だけだった。社長の言葉は、いつも、誰かの顔を通してしか、私に届かない。
*
日本橋へは、柏木室長と同じ車で向かった。
後部座席の、端と端。室長は、膝の上のタブレットから、一度も顔を上げない。
首都高の入口で、室長が、画面を見たまま言った。
「社長は、月曜の夜、瀬名さんを危ない場所に近づけるな、とおっしゃいました」
一本の線。
「私はそれを、監査から外せという意味に受け取りました」
「……そうですか」
「伺いたいのは、私のほうです」
室長は、ようやく顔を上げた。
「社長が夜中に会社へ戻られて、警備室に入館の記録を出させたのは、就任以来、初めてのことです。あの夜、何があったのですか」
答えられなかった。
窓の外を、灰色の高架が流れていった。
室長は、それ以上は聞かずに、またタブレットに目を落とした。
*
鷹宮不動産の本社は、日本橋の、古い石造りのビルにあった。
五階の経理部の奥、窓のない会議室が、監査チームの部屋になった。
「経理部長の、江藤でございます」
出迎えたのは、五十代半ばの、痩せた男の人だった。白髪の混じった髪をきっちりと分け、紺のスーツの袖口から、細い手首がのぞいている。
差し出された名刺の角は、少しも折れていなかった。
「ご依頼の資料は、こちらにすべてそろえております」
壁際に、段ボール箱が十二箱、積まれていた。一箱ずつ、側面に几帳面な字で中身が書いてある。
「足りないものがあれば、何なりと。私が直接、お持ちします」
年かさのほうの会計士が、箱の山を見上げて、小さく息を吐いた。
「几帳面な部長さんだ。こういう方の帳簿は、きれいすぎて、かえって時間がかかるんですよ」
江藤部長は、聞こえなかったように、もう一度頭を下げた。
「江藤部長は、こちらの経理部に長いんですか」
「二十年になります。入社以来、ずっとここで」
一本の線。
二十年。十五年前も、この人は、この部屋の近くにいた。
*
会計士の二人は、賃料と売上の帳簿を受け持った。
私に回ってきたのは、修繕工事の発注の記録だった。一番地味な紙の山。室長の割り振りだった。
地味な紙は、嫌いではなかった。
紙は、嘘をつかない。嘘をつくのは、紙を作った人間だけだ。そして、作った人間の癖は、必ず紙に残る。
過去三年分の発注を、表にしていった。
管理しているビルとマンションが、百二十棟。外壁の塗り替え、配管の交換、屋上の防水。発注先は、四十社近い。
発注書には、取引先がコード番号でしか書かれていない。番号の横に会社の名前を入れるのは、最後の作業に回した。先に名前を見ると、名前の印象で数字を読んでしまう。経理部の三年で覚えた癖だった。
ほとんどのコードは、季節に関係なく、ばらばらに仕事を受けていた。
一つだけ、違った。
毎年、三月。年度末の、最後の二週間。
そのコードだけが、決まって一件ずつ、工事を受注している。金額は、五千万円から八千万円。どれも、外壁の補修と足場の工事。
年度末には、予算が余る。余った予算が、毎年、同じ番号に流れていく。
三月の伝票の山なら、経理部で三年間、嫌というほど見てきた。予算を使い切るための、駆け込みの発注。けれど、普通は、毎年違う会社に、違う工事で散っていく。
毎年、同じ番号に吸い込まれていく予算は、見たことがなかった。
*
夜の八時を過ぎても、私は会議室に残っていた。
会計士たちは帰り、柏木室長は本社に戻った。江藤部長だけが、一時間おきに、お茶を替えに来た。
「瀬名さん。もう遅いですから、続きは明日に」
「もう少しだけ、見させてください」
部長は、私の手元の表に、ちらりと目を落とした。
何も言わずに湯飲みを置き、出ていこうとした。
扉が開いたのは、そのときだった。
「まだいたのか」
社長だった。黒いコートの肩に、外の冷気をまとっている。
江藤部長が、弾かれたように頭を下げた。
「しゃ、社長。わざわざ、このようなところまで」
社長は、部長に軽くうなずくと、私の椅子の後ろに立った。
大きな手が、私の右の肩に、置かれた。
重くはなかった。けれど、どかす気のない置き方だった。
「江藤部長」
平らな声だった。
「私の調査員を、丁重に扱ってくれ」
部長の目が、社長の手と私の顔を、一往復した。
「……は、はい。もちろんでございます」
深く下げた頭が、なかなか上がらなかった。
部長が出ていくと、社長は、私の肩から手を離さないまま、表をのぞき込んだ。
「柏木から聞いた。車の中で、問い詰められたそうだな」
「問い詰められては、いません」
「柏木への、言い方を間違えた」
社長は、短く息を吐いた。
「近づけるなと言ったのは、文書庫のことだ。監査のことではない」
砂嵐の向こうの声だった。
それが本当なのかどうか、私には、確かめようがなかった。
「何か、出たか」
「まだ、わかりません。一社だけ、気になるところがあって」
調査員、と社長は言った。秘書、ではなく。
外の冷気をまとっていた手のひらが、カーディガン越しに、少しずつ温かくなっていった。
私は、取引先の一覧表を開いた。
名前を入れる最後の作業を、一番気になる番号から始めることにした。
毎年三月のコード番号を、一覧の中から探す。指で、行をたどっていく。
番号の横に、会社の名前があった。
指が、止まった。
大学の図書館で、古い新聞の縮刷版を、何度もめくった。十五年前の、社会面の小さな記事。鷹宮不動産の経理課長、架空の修繕工事で三億円を横領か。
その記事の最後に、一度だけ載っていた発注先の名前。
ミナト設備。
父の事件と、同じ名前だった。
コメント
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第33話、お疲れさまです。柏木室長の「一本の線」と社長の「砂嵐」の対比がすごく効いてて、どちらが本当を言っているのか読者にも振らされる感じが絶妙でした。特に「嘘をつけない男」のはずの室長が、15分で信じていたことと反対のことを真実だと受け入れる――その場面の不気味さにゾクッとしました。そして最後、15年前の父の事件と繋がる「ミナト設備」の名前が出たところで、一気に物語の深層が見えた気がします。伏線の貼り方、美しすぎます。続きが待ち遠しいです。