テラーノベル
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玄関の扉が閉まる。深夜の部屋は、静まり返っていた。
慧は、腕の中で穏やかな寝息を立てる玲奈を抱えたまま、長い廊下を進む。
少し開いた唇から、すうすうと小さな呼吸がこぼれている。
月明かりに照らされた寝顔は、昼間の強気な姿からは想像できないほど無防備だった。
「……」
玲奈の寝室の前で、慧は一瞬だけ足を止める。
『いい? 契約結婚なんだから、お互いの寝室は完全な立ち入り禁止区域だからね!』
一緒に暮らし始める前、人差し指を立ててそう釘を刺してきた玲奈の姿がよみがえる。
けれど、義母や舞香を相手に一歩も引かず、疲れ果てて眠ってしまった彼女を、ソファへ寝かせる気にはなれなかった。
「……今日だけだ」
自分に言い聞かせるように呟き、寝室のドアを開ける。起こさないよう、慎重にベッドへ下ろした。
頬にかかった髪を指先で払い、布団を肩までかける。部屋を出ようとした、そのときだった。
「……いかないで」
消え入りそうな声が、夜の静けさに落ちる。玲奈は目を閉じたまま、寝ぼけたように手を伸ばしていた。細い指が、シャツの袖をぎゅっと掴む。
「どこにも……いかないで……」
「玲奈?」
返事はない。袖を握る指に、さらに力がこもる。
「ひとりに……しないで……」
慧は、自分の袖を掴む手を見つめた。この手をほどいて、部屋を出ればいい。何も聞かなかったことにすればいい。その方が、きっと正しい。
「……そんなことを言われて、放っておけるわけないだろ」
小さく息を吐き、ベッドの端へ腰を下ろした。震える玲奈の手を、両手でそっと包み込む。
本当は、抱きしめてしまいたかった。けれど、今はただ、安心して眠らせてやりたいと思った。
「……けい。約束、よ……?」
眠りの底からこぼれた声は、昔と同じ響きをしていた。
「……ああ。ここにいる」
重ねた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「どこにも行かない」
返事はない。けれど、玲奈の表情から、ほっとしたように力が抜けていく。その横顔を見つめながら、慧は遠い記憶に思いを馳せた。
十六年前。まだ玲奈にとって、彼が「神代慧」ではなく、ただの「けい」だった頃。すべては、この一言から始まった。
「あんたは今日から、私のワンちゃんね!」
コメント
1件
玲奈さんの「いかないで」に全部持っていかれました…。契約結婚のルールも強がりも、眠っている間に溶けてしまう瞬間が本当に愛おしい。慧くんが袖を掴む手を包み込んで「どこにも行かない」と囁く場面、何度も読み返したいです。ラストの「ワンちゃんね」に切なくなりました…!