テラーノベル
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バシッ――!
乾いた音が、道場に響いた。父の竹刀が面を打ち抜き、重い衝撃に身体が揺れる。体勢が崩れ、道場の床へ膝をついた。
「……っ」
痛みより先に、悔しさが込み上げる。顔を上げると、父は竹刀を構えたまま、冷ややかな目で俺を見下ろしていた。
誰が見ても、完全な一本だった。
「立て」
歯を食いしばり、もう一度立ち上がった。
「神代家の跡取りともあろう者が、情けない」
父は構えを解き、竹刀を下ろす。
「やはり、血は争えないな」
その一言が、防具越しの痛みよりも深く胸をえぐった。
「今日の稽古はここまでだ。頭を冷やしておけ」
父は振り返ることなく、道場を出ていった。竹刀を握りしめたまま、その背中を見送ることしかできなかった。
母は、長年父の愛人だった。病気で亡くなったあと、正妻との間に跡取りが生まれなかったという理由で、俺は神代家へ引き取られた。
あの日から、以前の自分は消えた。ただの「けい」ではなくなった。神代家の後継者。そういう名の、道具になった。
「聞こえましたよ」
優雅で、氷のように冷たい声が道場へ落ちる。顔を上げると、義母が立っていた。
「相変わらず、不甲斐ないこと」
義母はゆっくりと歩み寄ると、着物の懐から一枚の写真を取り出した。息が止まる。部屋に隠していたはずの、母と二人で写った唯一の写真だった。
「こんなものがあるから、甘えが出るのですよ」
「返して……!」
気づけば床に膝をつき、写真へ手を伸ばしていた。
「返してください……!頼むから、お願いします……!」
義母の指先に、ぐっと力がこもる。
――ビリッ。紙の裂ける音が響いた。
「やめて……っ!」
ビリ、ビリッ、と。表情ひとつ変えず、写真を細かく破っていく。
「下品な女の血を引いているだけでも不快だというのに」
小さな紙片がこぼれ落ちた。
「いつまで未練を残しているのですか。あなたは神代家を継ぐためだけの子。余計な感情など、最初から不要なのです」
破られた紙片が、床に散らばった。
***
防具を脱ぎ捨て、道着のまま屋敷を飛び出した。屋敷の中には、使用人たちの目がある。一挙手一投足を見張られ、感情を見せることさえ許されない。だから、誰も自分を知らない場所へ逃げたかった。
裏門を抜け、走った先にあったのは、小さな公園だった。古びたベンチ。小さな砂場。誰かが忘れていったボール。神代家の庭より、ずっと狭い。それなのに、屋敷よりもずっと息がしやすかった。
ベンチへ腰を下ろすと、お腹が小さく鳴る。昼から何も食べていなかった。それでも、あの場所に戻る気にはなれなかった。
「ねえ、あんた迷子?」
突然、頭上から声がした。顔を上げると、少し年上の女の子が立っていた。黒目がちの大きな目。風に揺れる長い髪。手には、給食袋。その口から、食べきれずに持ち帰ったらしいコッペパンがのぞいていた。
「違う」
「じゃあ、家出?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……別に、何でもいいだろ」
女の子は遠慮なく、俺の顔を覗き込んできた。神代家の人間のような、品定めする目ではない。ただ、まっすぐ俺を見ている。
「ねえ、お腹すいてない?」
「すいてない」
答えた直後。グーッ、と間抜けな音が鳴った。
「あははっ! すいてるじゃん!」
「……」
「はい。半分あげる」
給食袋から取り出したパンを、手で半分に割って差し出してきた。
「いらない」
「嘘。だってお腹鳴ってたもん」
「……」
「はいはい。いいから食べときなさい!」
強引に手へ押しつけられたパンを、恐る恐る口へ運ぶ。一口かじると、甘い味が口いっぱいに広がった。胸の奥まで、少しだけ温かくなる。女の子は満足そうに頷いた。
「よし! ねえ、名前は?」
「……けい」
「けいね。私は、れな!」
れなは隣へ腰掛け、自分のパンをおいしそうに食べ始めた。言葉を交わさなくても、気まずくなかった。
***
それから、放課後になると、何度もれなと公園で遊んだ。れなは小学五年生で、二学年年上。
年上ぶって、話し方は少し偉そうで。放っておけばいいのに、いつも余計な世話を焼いてくる。
けれど、それが不思議と嫌ではなかった。オレンジ色の夕日に染まる帰り道。れながランドセルのベルトを握り、振り返った。
「ねえ、明日も来るの?」
「来る」
「雨かもよ?」
「それでも来る」
「ふふっ。変なの」
眩しい笑顔だった。
***
次の日。空は朝からどんよりと曇っていた。ぽつぽつと降り始めた雨は、あっという間に激しい土砂降りに変わった。それでも、公園へ向かった。
滑り台の下にある小さなトンネルで、膝を抱えて待つ。服は濡れ、靴の中まで冷たい。どれほど時間が経っただろうか。
「はあ、はあ……っ!」
雨音に混じり、息を切らす声が聞こえた。顔を上げる。傘を差したれなが、トンネルの前に立っていた。髪の先を濡らし、肩で息をしている。一目で、ここまで走ってきたのだと分かった。
「まだいたの?」
「来るって言ったから」
れなの肩から、ふっと力が抜けた。
「無理しなくていいのに!」
呆れたように言いながら、ランドセルから取り出したタオルを俺の頭にかぶせた。
「ほら。これで身体、拭きなさい。風邪ひくでしょ」
「……」
「何よ」
「怒ってるのか」
「怒ってるわよ! こんなに濡れてまで……バカじゃないの」
そう言ったあと、れなは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「でもね……私、すごく嬉しかった」
「……嬉しい?」
「うん。約束、ちゃんと守ってくれたから」
タオルをかぶせられたまま、れなを見つめる。
「約束は、守るためにあるものだろ」
れなは髪を耳にかけ、毛先を指でくるくる遊ばせた。
「ふふ。そんなこと大真面目に言うの、けいくらいね」
「なんだそれ」
「けいって、ハチ公みたい」
「ハチ公?」
「飼い主をずっと待ってた、忠実で可愛いワンちゃんよ」
れなは傘を傾け、その場へしゃがみ込む。冷えた指先が、俺の濡れた前髪をそっと払った。
「小さくて、可愛いし」
「可愛くない」
「可愛いわよ」
むっとした俺を見て、楽しそうに笑う。
「決めた。あんたは今日から、私のワンちゃんね!」
「……ワンちゃん?」
視界いっぱいにれなの顔が近づく。ちゅっ。額に、柔らかな熱が触れる。
「――っ!?」
耳を打っていた雨音が、一瞬で遠のく。額に残った小さな熱だけが、冷え切った身体の中で、いつまでも消えなかった。
コメント
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わああ〜〜第19話、めっちゃ泣けた!!!😭💕 冒頭の道場のシーンから義母に写真破られるシーン、胸がギュッてなったよ…。けいくんの辛さがビシバシ伝わってきて、読んでてこっちまで苦しくなった。 でもそこで出会ったれなちゃんの「半分あげる」が温かすぎて…!雨の日に待ってたけいくんに「ハチ公みたい」って言って、ちゅってするシーン、もうエモすぎて叫んだわ!!!!!「私のワンちゃんね」ってタイトル回収も天才すぎる…✨ このふたりの関係性、尊すぎてずっと見てたい…!!! 続き楽しみにしてるよ、ひより先生!!⋆♡