「明智君、久しぶり」
「……」
青黒い髪の男は、俺に微笑みかけるとゆっくりと俺に近づき自分の行く手を阻んでいる津梅を足で蹴り飛ばし、俺の目の前までやってきた。
ゾッとするような海の底のような瞳は、いつ見ても慣れない。
「もしかして、俺の事忘れちゃったとか?」
「……忘れるわけねえだろ、くそ野郎が」
「うん、威勢がよくて何よりだ」
クスリと笑うと、そいつはしゃがみこんで俺の血が流れている太ももを優しく撫でた。その手つきに思わず鳥肌が立つ。細く長い指はゆっくりと太もも、腰、胸と上がっていき、俺の唇をなぞるように触れてきた。
「相変わらずいい身体してるよね、明智君は。前よりも色っぽくなったんじゃない?」
「触んなっ!」
俺が怒鳴ると、津梅と同じように腹部に強烈な痛みを感じた。殴って来たのだと気づいたのは、数秒経ってからだ。
「うぐ……」
「あれ? ごめんね、強く殴りすぎちゃったかな?」
まるで、子供のように無邪気に笑いながら謝ってくる。俺はこいつが嫌いだ。いや、苦手、俺が唯一恐怖を抱いている相手だ。
「何しにきた、二十面相」
「何ってそりゃ、助けに来たのさ。可愛い部下を。いや、元《·》部下っていった方が正しいかな」
と、男、二十面相は肩をすくめる。
二十面相というのは勿論ニックネーム、あだ名のようなものだ。そして、此奴は俺が警察だった頃、公安に異動が決まって間もない頃教育係兼、上司だった男だ。潜入調査らや危険な仕事が回ってくることが多く、彼の本当の名前を知る者はいない。毎日違う名前が飛び交い、たまに死人の名前を借りることからいつしか、この男はいろんな名前、顔を持つ男という意味を込めて二十面相と呼ばれるようになった。
そんな嘘や偽の情報で固められた彼だったが、仕事は尊敬するほど出来て、信頼が厚かった。
ただ、気に入った部下に対しての言動は度を超えすぎていた。彼に気に入られ壊れていった人間は両手では数えられないほどいる。俺もその内の一人だ。
「今回の事件、お前が仕組んだことじゃないのか?」
「どうしてそう思うのかな、根拠でもあるのかい?」
「……そもそも、警察は秘密主義だ。俺が犯人を逃したなんて情報が簡単に漏れるはずがない。それに漏れたとしても誰が、までは突き止められないだろう。だが、そこの津梅は俺だって明確に分かった上で署に乗り込んできた。俺の行動パターンを把握して、倉庫に少女を放置できるほど頭のイイ奴とは思えない。あれは、お前がやったんだろ」
俺がそう言うと、二十面相は驚いたように目を見開き、その後面白そうに笑った。
俺が睨むと、彼は悪びれもなく、正解だよと言って俺の頬を撫でた。
「ああ、本当に明智君は最高だね。俺の事を楽しませてくれる最高の玩具だ」
「……俺はお前の玩具じゃねえ」
「てっきり、二年前に壊れたと思ってたんだけど、俺の勘違いだったみたいだ。また、俺を楽しませてくれるだろう?」
と、二十面相は再度俺の唇を撫で、その指を俺の口の中に突っ込んだ。歯を立ててやろうかと思ったが、体勢が悪く呼吸も出来なければ、太ももに出来た傷口が痛み上手く力が入らない。
二十面相は満足そうに笑うと、ゆっくりと俺の口から手を引き抜いた。
「げほっ……かっ、はぁ、はあ……」
「本当にいい目をしている。抉り出したいぐらいに」
二十面相は恍惚な表情を浮かべて、俺の目を見つめてくる。
俺はその視線から逃れるため顔を背けた。だが、逃がさまいと二十面相は俺の顎を掴み無理やり自分の方を向かせた。意識を吸い取られそうな、魔法にでも掛けられそうなその蒼い瞳から目が離せなくなる。
「君のお父さんもかつて同じ目をしていたよ。君はお父さんにそっくりだね」
「……お前が、俺の親父を殺したんだろうが」
「ああ、気づいていたんだ? 何だかつまらなくなっちゃってね。飽きた玩具は捨てないと」
と、二十面相は子供が玩具に飽きたから壊すような口調で言った。
こいつはいつもそうだ。自分が興味を持てばどんなものでも手に入れる。そして、それが面白くなかったらあっさりと切り捨てる。まるで子供のように無邪気に残酷に、人の命を奪うのだ。とても警察とは思えない。
だが、こいつは巧妙な手口でそれら全てを隠蔽する。
だから咎められたことはなかった。信頼も厚いから、俺が訴えても上は聞く耳を持たないだろう。
「でも、よかった。君のお父さんより面白い玩具が見つかって。俺の退屈は明智君によって解消された。ずっと壊す手前で置いて、ずっと隣に置き続けようと思っていたのに……君は、警察を辞めた」
そういった二十面相の口調はとても冷ややかなものだった。
公安にいどうになってから、三つの事件で被害者側を悲しませ、犯人を取り逃がした。その責任もあって辞職を申し出ると、上の連中は簡単に受理した。
だがその責任よりも、もしかしたら此奴から逃げたくて警察を辞めたのかも知れないと、俺は今になって思う。
俺が何も答えずに黙っていると、二十面相は目を細め、俺の腹に手を当てた。
「ねえ、明智君。俺が君の初めてを奪ったときのこと覚えてる?」
その言葉に、二十面相の表情に俺の背筋は痛いぐらい凍りついた。顔を上げれば、二十面相はぺろりと舌舐めずりをし不気味に口角を上げていた。
「…………っ、んなの、覚えて……」
「よかった。その反応は覚えていてくれたんだね」
二十面相は俺の腹部を優しく撫でる。その手つきが気持ち悪く、鳥肌が立った。今度はだんだんと下に下がっていく手に、その感触に俺は身を震わせるしかない。
「明智君の怯えきった顔……最高だった。今でも昨日のことのように思い出せるよ」
「……ッ!」
二十面相は俺の服に手を掛け、慣れた手つきでシャツのボタンを外す。
露わになった胸元に二十面相はキスを落とした。そのまま首筋を伝い、鎖骨を噛まれる。痛みに声を漏らすと、二十面相は満足そうに笑い、噛み跡の付いたそこを何度も舐めた。
その間、二十面相の手は休むことなく俺の体を這い回る。
二年前のことを彼同様鮮明に思い出し、俺は恐怖で震えた。視界がじんわり滲んでいくのを感じながら、負けてたまるかと二十面相を睨むが、彼の目に射貫かれ、俺は喉の奥がヒュッと鳴る。
「明智君は本当に綺麗だね。この白い柔肌に、細い腰……女の子みたいだ」
「……やめろ」
「どうして?」
「やめろ………やめて、ください」
俺はそう懇願するが、二十面相はクスリと笑うだけだった。二十面相は俺の頬にそっと触れ、そして唇を重ねる。
その瞬間、吐き気と嫌悪、そして今までに感じたことのない罪悪感が波のように押し寄せた。
ようやく離れた二十面相と俺の間に銀色の糸がつぅと引く。
「うーん、明智君……前よりも弱くなったね」
「…………」
「何というか、かつて俺に向けていた恐怖や憎悪の目をしていないって言うか、誰かに謝罪しているような罪悪感で死にそうな顔をしている」
二十面相は推理でもするかのように、顎に手を当て首を傾げた。
そうして、人差し指を立て俺を指さした。気にくわないとでもいうように、冷ややかな目で俺を見下ろす。
「恋人が出来た、とか」
「……」
「いや、帰ってきたって言う方が正しいかな? その恋人は、幼馴染みの男の子。そして、十年間海外に行っていて、二年前に戻ってきた――――神津恭《かみづゆき》君かな?」
と、二十面相は俺の反応を楽しむようにニヤリと笑みを浮かべた。
その通りだと言わない代わりに、俺は二十面相から目を逸らす。
二十面相は、やっぱりねと楽しげに呟く。そして、俺の首に手を掛けた。ゆっくりと力が込められていく。
「ねぇ、教えてよ。明智君……君はあの時どんな気分だった? 俺に無理矢理されたときのこと、それを隠して恋人の前で笑っている気分は? 恋人に抱かれる気分はどう?」
「あ”、ぐ……っ、」
息苦しさに俺は喘いだ。だが、二十面相は力を緩めることはない。
苦しい。怖い。嫌だ。
そんな感情がぐるぐると渦を巻き、俺の心を支配する。このまま殺されるのかと思ったそのとき、ふと俺の頭に浮かんだのは神津の顔だった。
好きだからこそ、こんな醜態を見られたくない。嫌われたくもない。幻滅されたくない。
だから、俺はこいつとの関係を二年前の出来事の全てを秘密にした。
誰よりも強い恐怖を植え付けられた男。俺は一生こいつの呪縛から解き放たれることはないんだなと察した。
「……は、あ……ぁ」
暫くすると、二十面相は俺の首から手を離しちらりと後方を確認した。そうしてゆっくり立ち上がると俺に背を向ける。
「どうやら、お迎えがきたようだね。また、遊ぼう。明智君」
そう言って、誰かがきたのを察知したのか二十面相は闇の中に消えていった。
ようやく恐怖から身体が解放され、足の痛みが戻ってきた。そして、タッタッ……とこちらに走ってくる足音が聞えた。
「春ちゃん!」
聞き慣れた声に俺は安堵する。
今までに見たことの無い神津の顔に驚いたが、もっと驚いていたのは神津の方だった。神津は俺が縛られている姿を見ると、いつもは垂れている目をつり上げて、床に転がっている津梅を睨み付けた。服もはだけて、足には大きな傷と溢れている血。神津は俺の方に駆け寄ってきて、すぐにその縄をほどいた。
神津が知っているのは、この事件の犯人が津梅だということだけ。だから、俺は隠すために平生を取り繕う。
「神津、わりぃ……迷惑かけた」
その言葉に神津は首を横に振るばかりだった。
すると、建物の外からパトカーのサイレン音が聞えてき、ようやく事件は終わるのかと息を吐く。
「お前が呼んだのか?」
「ううん、春ちゃんの未来の弟子が」
と、神津は答えた。俺は一瞬理解できなかったが、神津の顔を見て全てを察した。
小林には悪いことしたな、と後で彼奴にも謝らなければと思った。
「後これ、落ちてた」
そういうと、神津は俺に以前プレゼントしてくれた手帳を渡した。あの時落としたのかと、受け取りつつ俺は、神津の肩を借りて立ち上がる。足に走った痛みに顔を歪めれば、神津は俺よりも痛そうに顔を歪めた。
「春ちゃん、矢っ張り歩かない方が良いんじゃない?僕が背負って……」
「……恭」
俺は無意識に神津の名前を呼んだ。
神津は、少しの間黙っていたが「何?」と優しく尋ねた。彼の温もりを感じて、彼の匂いを感じて、彼の音を感じて、俺は先ほどの恐怖を上書きしてもらいたいと、神津の顔を見つめる。若竹色の瞳は俺だけを映していて、神津は唇を噛み締める。
「何、春ちゃん」
「……恭、抱きしめて欲しい」
そう、俺が強請れば神津は少し驚いたような表情をした後、何も言わず俺を抱きしめてくれた。
温かい。心地良い。誰よりも大好きで、安心できる温かさだ。
俺はその安心感に浸りながら目を閉じた。