テラーノベル
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看板のない重厚な扉の向こう側には、喧騒を忘れさせる静謐な空間が広がっていた。
運ばれてくる料理は、どれも芸術品のように繊細で、素材の良さを極限まで引き出した滋味深いものばかりだった。謹慎中の身でありながら、これほど贅沢な時間を過ごしていいものかという罪悪感は、一口ごとに舌の上でとろけ、消えていった。
「……あそこの席のカップル、別れ話の真っ最中だね。男の方は必死に嘘を重ねているけれど、女の方はもう彼のネクタイの結び目の緩み方にさえ、愛想を尽かしている」
柊さんはワイングラスを傾けながら、遠くの席を眺めて事もなげに言った。
「なんで分かるんですか? そんなに声は聞こえないですけど」
「読唇術だよ」
「……読唇術、ですか?」
「耳を澄まさなくても、視界に入れば声は届いてしまう。……まあ、便利すぎて退屈することもあるけれどね」
「そんな能力があったら、心が休まる暇なんてないでしょう。四六時中、他人の裏側を覗き見ているようなものです。私なら一日で疲れ果ててしまいます」
私が呆れ顔で言うと、柊さんは少しだけ表情を緩め、グラスをテーブルに戻した。
「別に、意識をオフにすることもできるよ。……今日はただ、僕にこんな能力があるって見せれば、君が少しは見直してくれるかなって思ってね」
「見直すもなにも、あなたの能力については心から尊敬していますよ。……その上で、人としては激しく毛嫌いもしていますが」
「辛辣だな、葵さん。それに僕は今はもう詐欺師じゃない」
「……ちゃんと聞いたことなかったんですが、詐欺師を辞めたのは、婚約者さんが亡くなられて、警察に協力するためでしたっけ?」
「厳密に言うと、彼女が亡くなる前には辞めていた。彼女と出会って、僕は真人間になろうと……」
柊さんはそこで言葉に詰まり、うつむいた。私は何も言わず、ワインに口をつける。
メインディッシュが下げられ、食後の余韻を楽しむ時間。私は、さっきから胸の奥に溜まっていた熱を、少しずつ吐き出すように語り始めた。誘拐事件で、なぜあそこまで自分が冷静さを欠いてしまったのか、その根源にあるものを。
「……実は柊さんを毛嫌いしているのには、刑事だから以上にある理由があって。私の母に少し問題が」
「どんな?」
「父は、自分で言うのもなんですが、真っ直ぐで立派な人でした。警察官として尊敬しています。でも、母は……その正反対というか。ひどく詐欺にかかりやすい人なんです。昔、変な新興宗教にハマって、家の貯金を使い果たしたこともありました」
柊さんは何も言わず、ただ静かに私の言葉を待っていた。
「だから私、詐欺師という人種に嫌悪感があるんです。……あなたに対してもそうですし、この間の誘拐事件の母親のように、霊感商法という見え透いた嘘に縋っている人を見ると、そっちにも無性に腹が立ってしまう。……だからあの時、佐藤が彼女の信仰心を利用して英雄になろうとした瞬間、私は……」
「だから、あんなに激高したわけだね」
「はい。……醜い私情です。刑事失格なのは分かっています。……あと、それとは別に、柊さんに一つだけ言っておきたいことが……」
私は、先ほどから掌に滲む冷や汗を拭い、意を決して顔を上げた。二十余年、誰にも言わず、世間に秘めてきたあの日の結末。警察官としての自分を壊してしまうかもしれない、重すぎる真実。
「……私が、十歳の時に誘拐された時、実は……」
「君が、昔誘拐犯を殺害したことかな?」
柊さんの声は、驚くほど平坦で、それでいて冷徹だった。私は、自分が呼吸を止めたことにさえ気づかなかった。全身の血が逆流し、視界が白く明滅する。
「……な、……何を……」
「十歳の少女が、自分を守るためにナイフを手に取った。……それは正当防衛であり、生存本能だ。だが、警察官の娘として育った君は、それを自らの手で犯した罪として、今日まで自分の中に埋めてきたんだろう?」
「……柊、さん……」
「君の正義感は、他人を救うためのものじゃない。……あの日、奪ってしまった命に対する、終わりのない贖罪なんだ。……違うかい、南さん?」
テーブルに置かれた私の右手は、目に見えて震えていた。完璧に隠したはずの過去。誰にも暴かれるはずのなかった、私の指先に残るあの生暖かい感覚。
事件がセンシティブすぎて報道もされなかった。それを何故この人が? 推理した? 過去の記録を見たのか?
なぜ?
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