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外へ助けを呼べないようにと鞄は取り上げていたのに、ポケットの中までは確認しなかったのかと思っていたが、そこまで間抜けでも無かったらしい。美琴が護符を持っていることを康之はちゃんと知っていた。ただ、式には効力が無いものだからと回収するまではしなかったみたいだが。
安定感のないソファーの上でバランスを取りながら、美琴は小さく折り畳まれていた護符の一枚を開く。そして、力を込めて唱えた。
「――われは八神美琴。本家八神の名のもとに、汝の契約を書き換える。『解放』――」
「なんだとっ⁉」という康之が驚いた声を上げているのが後ろから聞こえてきた。美琴はそのまま腕を伸ばし、ソファーを抱えている大柄のあやかしの胸へとそれを張り付ける。瞬間、だいだらぼっちの身体が柔らかな白い光に包まれたのが見えた。優しい光はあやかしの身体へと溶け込むように消えていく。
真知子が禁術だと言っていた、扱える者が限られた護符。それは本家の正統な後継だけが使うことを許された、解放の術。一族全ての式の契約へ干渉できる特殊なもので、分家の暴走を制御する力を持つ。本家の一部の人間にしか伝承されず秘匿とされ続けていたから、分家の人間にはその存在を知る術はなかったはずだ。式を奪われた康之が悲痛の叫び声を上げた。
長年、自身を縛り付けていた契約が解除され、だいだらぼっちは両手で抱えていたソファーをそっと床へ置き直した。もう、この家の者からの命を聞く必要はないのだ。そして、美琴の右足首に巻かれていた結束バンドを大きな指先で引きちぎる。まるで、助けてくれたお返しだと言わんばかりに。
「ありがとう」
美琴が礼を言うと、能面のようだった顔を歪めさせて口の端だけでにっと笑ってみせる。そして、「もう自由にしていいんだよ」という美琴の言葉に、嬉しそうに頷き返した。喋れないみたいだけれど、言葉はちゃんと通じているみたいだ。つまり、康之が吐いた暴言も全て、このあやかしは理解していたということ。けれど、契約に縛られて、この家から逃げることはできなかった。
だいだらぼっちは康之の視界から隠すように、美琴のいるソファーの前に壁となって立ち塞がる。残りの護符を奪い取るべく腕を伸ばして近付いてこようとした康之は、大柄のあやかし相手では勝ち目がないと、もう一体の式へ慌てて命令する。
「河童、そいつから護符を奪い取るんだっ!」
使えないと散々罵っていたけれど、それでも完全に失う訳にはいかないようだ。ガリガリにやせ細ったあやかしは、戸惑いながらも美琴の方へ近づいてくる。けれど、河童からは敵意のようなものは感じない。式として契約していても、彼らには自我がある。それは家にいるアヤメ達を見ているからよく知っている。この現世での居場所を提供される代わりなだけで、契約者の言葉は絶対ではない。
ここに居たくないのなら、命令に従う必要はないのだ。
「分かった。あなたも解放してあげるね」
美琴は護符をもう一枚取り出して、さっきと同じように唱えた。――『解放』と。河童が光に包まれ、過去に交わされた契約が消滅していくのを、康之は呆然と立ち尽くしたまま眺めていた。
「終わった……式もなく、祓いなんて出来るわけがない……」
膝をついて床へ項垂れる康之を横目に、美琴は河童が探してきてくれた通学鞄を肩へ掛け、八神康之の家の玄関を出る。河童達はこの後どうするつもりなのかは分からないが、この家に囚われたままよりはきっとマシだろう。
門を出ていくと道路脇にシルバーのプリウスが一台、ハザードを点滅させて止まっていた。車には見覚えはなかったけれど、そのボンネットの上に腰掛け、鬼姫がぶらぶらと足を揺らしているのが見えた。美琴は急いで駆け寄った。近づくと助手席側のドアが開き、中からツバキが静かに微笑みながら顔を出す。
「おかえりなさい、美琴」
「待ってたのに、アタシの出番は全然無かったやん」
驚き顔の美琴へ、ツバキが「中の様子次第で踏み込むつもりでいたんですが」と説明する。突入のタイミングを門の前から伺っていたのだと。
「中の様子って、カーテンは全部閉め切られてたけど、どうやって?」
「ネズミを忍び込ませてありますので」
当たり前のことのように、ツバキがしれっと答える。猫又の言うネズミとは何かの隠語とかではなく、きっと本物の小動物のネズミのことだ。カラスと猫だけに留まらず、ネズミまでもが猫又の傘下らしい。やっぱりツバキだけは敵に回したくない。
あの汚い家の中だと、何匹入り込んでいても絶対に気付かなかった。家の汚屋敷ぶりを改めて思い出し、ぶるっと身体を震わせる。
「一人で解決してくるなんて、小娘も大したもんやん」
「でしょう? だから、いい加減『小娘』って呼ぶのやめようよ……」
ボンネットのアヤメに向かって、苦笑交じりに話していると、運転席のドアが勢いよく開いた。そう言えば、この車は誰のなんだろう?
「おい、もしかしてボンネットに何かいるのか?! ちょ、そんなとこに乗んなよな……」
「あ、孝也おじさんの車だったんだ」
父のハトコにあたる八神孝也。鴨川桔梗を預かってくれた親戚は作業途中を抜け出して来たらしく、紺色の作務衣姿のままだ。視えない孝也は美琴の視線を辿って、ボンネットの上の方を目を細めたりして確認している。大事な車が雑に扱われていることに気付き、慌てて飛び出して来たらしい。
「まあな、真知子おばさんから車を出してくれって頼まれたし、俺も康之とは一応親戚だしな」
車体の上を気にしながら、孝也は後部座席のドアを開けて美琴に乗るように勧める。曽祖父の下の弟が孝也にとって祖父にあたり、彼の父親は真知子の従兄弟。つまり、康之ともハトコの関係になり、知らない間柄ではない。彼なりに親戚を説得することができたらと駆け付けてくれたみたいだ。