テラーノベル
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私が作った不格好な生姜と卵のおじやを最後の一滴まで綺麗に完食してくれた蒼さんは、処方されていた解熱鎮痛剤をぬるめの白湯で飲み干した。
一番出汁と黄金生姜の温かさが身体の芯まで届いたのか、彼の張り詰めていた肩の力がようやく抜けていくのがわかる。いつもなら隙のない冷徹な威厳を纏っている彼も、今は熱で潤んだ琥珀色の瞳を細め、どこか満足げな吐息を漏らしていた。
「ごちそうさまでした。……さあ、お薬も飲みましたし、食器を片付けたら今度こそ寝室のベッドでゆっくり眠りましょう」
私がお盆を手に立ち上がろうとした、その瞬間だった。
――グイッ!
「きゃっ……!?」
突然、私のエプロンの裾が強い力で引かれ、バランスを崩した私はソファに横たわる蒼さんの広い胸板の上へと引き倒された。
「あ、蒼さん!? 危ないですよ、お盆を落とすところでした……!」
「……行くな、琴音。洗い物など明日の家事代行に任せればいい。その五分間すら、俺のそばから離れるな」
背後から私の腰へと回された彼の両腕は、三十九度の病人とは思えないほど強い力で私を閉じ込めていた。
密着した背中越しに、彼の熱い体温と一緒に、小刻みに震えるような微かな振動が伝わってくる。
「……薬が効き始めて、熱が下がる前の悪寒が来たようだ。……少し、寒い。君の平熱は三十六・五度だろう。俺の乱れた自律神経を安定させるために、朝まで俺の『抱き枕』になって温めろ」
どこまでも理詰めの命令口調なのに、私の首筋に埋められた彼の熱い頬と掠れた声には、子供のように縋るような切なさが滲んでいた。
私はお盆をサイドテーブルに安全に置くと、彼に肩を貸して寝室のキングサイズベッドへと移動し、分厚い羽毛布団の中で彼の腕の中にすっぽりと収まった。
長い手足に絡め取られるように抱きしめられながら、私のスマートフォンに同期された画面を見ると、彼の速かった心拍数が少しずつ穏やかなリズムへと落ち着いていくのがわかった。自分が彼にとって一番の精神安定剤になっているという事実を噛み締めながら、私もまた静かに瞼を閉じた。
◆
それから数時間が過ぎた、深夜二時頃。
背中から伝わる異様な熱気と浅い寝息に気づいて目を覚ました私は、彼の額の冷却タオルを替えようと、そっと彼の腕をほどこうとした。
しかし、私がわずかに身じろぎをした瞬間。
「……行くな、琴音……っ!」
蒼さんの手が、私の左手首――黒いスマートウォッチの上から、骨が軋むほど強く握りしめられた。
「蒼さん……? 大丈夫ですよ、タオルを冷やし直すだけです……」
「行くな……俺の手から、いなくならないでくれ……っ」
振り返ると、彼の瞳は固く閉じられたまま、額には玉のような汗が浮いていた。高熱による一時的な譫妄(せんもう)状態で、夢と現実の境目が曖昧になっているのだ。
「……俺は、最低の男だ……」
「え……?」
「琴音は知らない……俺がどれほど狡猾に、あいつを俺の檻の中に閉じ込めたか……」
暗闇の寝室に、熱で理性のタガが外れた『冷徹社長』の、これまで誰にも見せなかった魂の独白がこぼれ落ちた。
「……あいつが新卒で入社してきた三年前から、ずっと……俺の視界には、あいつしかいなかった。……だが、あいつは真面目で有能すぎた。かつて俺が過労で倒れた時と同じように、あいつは自分の食事も睡眠も削って、他人のために命をすり減らしていた……」
私は息を呑み、彼の震える言葉に耳を澄ませた。
入社当時の私は、早く一人前の秘書として認められたくて、昼食も抜いてデスクに向かい続けていた。誰にも弱みを見せてはいけないと頑なに鎧を着込んでいたあの頃から、彼はずっと私を見ていてくれたというのか。
「……あいつがいつか壊れて消えてしまうんじゃないかと、毎日怖くてたまらなかった。……だから俺は、あいつを俺の専属秘書に引き抜き、あいつの健康を管理するという名目で私生活まで踏み込んだ。……それだけじゃない」
蒼さんは苦しそうに眉を歪め、私の肩口に額を押し付けた。
「……先月、社内に流れた西園寺家との縁談の噂も……母さんが会社に乗り込んできて、あいつに厳しい仏文契約書のテストを課したのも……すべて、俺が裏で糸を引いて仕組んだシナリオだ……」
「――っ!?」
私は目を見開いた。
西園寺家との噂も、お義母様の試練も、蒼さんが裏でコントロールしていた?
「……あいつは、俺が普通に求愛すれば、すぐに『自分はただの秘書だから』『社長のキャリアの邪魔になるから』と身を引こうとする。……だから、わかりやすい外敵と最大の壁を用意して、あいつ自身の実力でそれを打ち破らせる必要があった。そうすれば、社内の人間も、親族も、そしてあいつ自身も、二度と『身分不相応だ』なんて言って俺から逃げられなくなるからな……」
なんて不器用で、なんて徹底した外堀の埋め方だろう。
私が自分の有能さに自信を持ち、胸を張って彼の隣に立てるようにするために、彼は特製ブレイン・フードまで作って私を支え、すべての舞台を整えてくれていたのだ。
「……スマートウォッチで二十四時間監視しているのも、本当はただの健康管理じゃない。……あいつの鼓動が、あいつの命が、今この瞬間も俺のそばで確かに脈打っていると確かめていないと、失う恐怖で俺の頭がおかしくなりそうだからだ……」
巨万の富と権力を持つ無敵の魔王が、まるで捨てられることを恐れる迷子の少年のように震えながら、私の腰を強く抱きしめる。
「……もし琴音が、俺のこの重苦しくて異常な執着を知ったら……きっと俺を軽蔑して、今度こそ時計を外して逃げてしまう。……頼む、行かないでくれ、琴音……。俺を、一人にしないでくれ……っ」
彼の目尻から、熱い一筋の涙がこぼれて私の首筋を濡らした。
それを感じた瞬間、私の胸の奥には、恐怖や怒りなど一ミリも湧いてこなかった。代わりに込み上げてきたのは、喉の奥が詰まるほど深く、温かい愛おしさだった。
私は彼の腕の中でゆっくりと向き直り、高熱で震える彼の大きな背中を、両腕でぎゅっと抱きしめ返した。
「……ばかですね、蒼さんは」
私は彼の汗ばんだ黒髪を優しく撫でながら、耳元で囁いた。
「私がそんなことで、あなたを嫌いになって逃げ出すわけないじゃないですか。……私の方こそ、弱みを見せたら見捨てられるって勝手に怯えて、蒼さんを困らせてばかりでした。でも、蒼さんが私を追い詰めて、私のポンコツな裏の顔も全部抱きしめて、美味しいご飯で満たしてくれたから……今の私がいるんです」
私は彼の熱い額に、自分の唇をそっと重ねた。
「どれだけ重たくても、どれだけ過保護でも構いません。私はあなたのその『健康管理』という名の甘い檻が、世界で一番大好きです。……一生、あなたのそばから離れませんよ、蒼さん」
私の言葉が夢の中の彼にも届いたのか、蒼さんの荒かった呼吸がすうっと穏やかになり、私のスマートウォッチと彼のスマートウォッチが、重なり合う二つの穏やかな心拍を刻みながら静かな夜へと溶けていった。
◆
翌朝、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日で目を覚ました私が瞼を開けると、そこには一晩で三十六・五度の平熱へと完全復活を遂げ、穏やかな慈愛に満ちた瞳で私を見つめる蒼さんの姿があった。
「おはよう、琴音。……昨夜は、君の特製おじやと一晩中の抱き枕のおかげで、これ以上ないほど完璧にリカバリーできた」
「あ、蒼さん……! 熱、本当に下がったんですね……! よかったぁ……っ」
私が安堵で涙ぐむと、蒼さんはベッドから降り、チェストの引き出しから一枚の『証書』と、万年筆を取り出して私の前に片膝をついた。
その用紙の見出しには、くっきりと『婚姻届』の文字が印字されており、夫となる者の欄にはすでに『神崎 蒼』の署名と実印が押されていた。さらに証人欄には、先日私たちを認めてくれたお義母様・神崎凛子の署名まで記されている。
「琴音。昨夜、熱に浮かされた俺の愚かで重たい本音をすべて聞いた上で、『一生そばから離れない』と言ってくれたな。……もう、取り消しは認めないぞ」
「蒼さん……」
「これまでのスマートウォッチと食事管理は、すべて今日この日のための仮契約にすぎない。……俺と結婚してくれ、琴音。君の優秀な頭脳も、ポンコツな私生活も、その胃袋も、これから先何十年と続く命の鼓動も――俺が一生涯、二十四時間体制で管理し、愛し抜くと誓う」
朝の光の中で差し出された、文字通り『一生涯の健康管理本契約書』。
左手首のスマートウォッチが『ブブブッ!』と祝福のような最大心拍数のアラートを鳴らす中、私は溢れる涙を拭い、震える手で万年筆を受け取って『白石 琴音』の署名を書き入れた。
「……はい。私の生涯のすべてを、あなたに預けます。これからもずっと、私を管理してください、蒼さん……!」
書き終えた婚姻届をサイドテーブルに置いた瞬間、完全復活した魔王様は私をベッドの上へと深く押し倒した。
「……さて。契約は成立したが、昨夜俺を看病したせいで、君の今の体温は三十六・八度、平熱より〇・三度高いな。今度は俺が君に『お返しの看病』と『歩行禁止令』を発動する番だ」
「えっ、ちょ、ちょっと蒼さん……!? んんっ……!」
新しい『神崎夫人』の唇は、ストッパーの完全に外れたスパダリ夫の甘く熱い誓いのキスによって、朝日が昇り切るまでたっぷりと塞がれ続けたのだった。
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コメント
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うわあ、第15話、一気に持っていかれました……! 高熱の譫妄状態で零れた蒼さんの独白が、これまでのすべての行動に完璧な伏線を張っていたのが衝撃的でした。「健康管理」という甘い檻を自覚的に仕掛けていたなんて、設定好きとしては痺れる構造です。でも何より、その執着の重さを琴音が「世界で一番大好き」と受け止めた瞬間、物語の温度が一気に変わった気がしました。証書に万年筆の求婚シーン、最高に決まってます。