テラーノベル
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世田谷の静寂とは対照的に、新宿のオフィスビルの一角にある阿久津の会社は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
捜査二課の近藤さんが「阿久津社長、死亡」の報を正式に伝えた瞬間、整然と並んでいたデスクの列は崩れ、怒号と悲鳴が入り混じる。
社員たちは、社長の死を悼むためではなく、自分たちの「打ち出の小槌」が消えたことへの恐怖に、文字通りパニックを起こしていた。
「……醜いですね。悲しんでいる人間が一人もいない」
私は、喧騒から少し離れた壁際で、胸のむかつきを抑えながら呟いた。投資家を騙し、社員権という名の虚構を売り抜いてきたエリートたちの化けの皮が、たった一つの「死」によって無残に剥がれ落ちていく。
「南さん。人間っていうのはね、自分を映す鏡を失った時が一番本性が出るんだよ。阿久津という巨大な鏡が割れて、彼らは今、自分たちの空っぽな中身に直面しているのさ」
柊さんは、混乱するオフィスを眺めながら、どこか楽しげに、けれどひどく冷めた瞳で言った。
彼は私の隣に立ち、不意に私の肩に手を置いた。
「そんなに眉間に皺を寄せない。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。ほら、深呼吸」
耳元で囁かれた低く甘い声に、心臓が跳ねた。
事件現場での彼はいつも氷のように冷徹だが、ふとした瞬間に見せるこの「近さ」に、私はどうしても戸惑ってしまう。
彼の指先が、私のコートの襟元を整えるように微かに触れた。
「……何してるんですか。仕事中ですよ」
「仕事だよ。君が緊張しすぎて呼吸を止めていたら、僕のボディーガードが務まらない。……それとも、僕の顔が近すぎて照れてるのかい?」
悪戯っぽく微笑む彼の瞳の奥を覗き込もうとするが、そこには相変わらず、昨夜知ったあの深い闇が潜んでいる。
愛する人を奪われ、復讐のために警察に飼われることを選んだ男。彼のこの優しさは、本心なのか、それとも私を動かすための詐欺師のテクニックなのか。
「照れてません。……行きますよ。犯人がこの中にいるかもしれないんですから」
私は彼の熱を振り払うように一歩踏み出し、オフィスの中央へと目を向けた。
近藤さんたちが社員一人ひとりに事情聴取を始めたが、状況は芳しくなかった。
ナンバー二の副社長、石川。彼は社長の死を聞いた瞬間、泣き崩れるフリをしながらも、デスクの下で必死に顧客リストをUSBメモリにコピーしていた。
営業部長の佐伯。彼は「これからどうすればいいんだ!」と叫びながら、真っ先に自分の身の振り方を相談するためにどこかへ電話をかけ続けている。
他にも数名の社員というか、詐欺的手法の仲間。彼らは怯えたように震えているが、その瞳にはどこか「解放された」ような安堵の色も見え隠れしていた。
「……柊さん。どう思います? どいつもこいつも怪しすぎて、逆に誰が犯人か読めません」
柊さんは、石川がコピーしているUSBや、佐伯の必死な電話、社員たちの震える指先を、まるで舞台鑑賞でもするように眺めていた。
「ふむ。石川は強欲、佐伯は小心、他は……無気力か。三者三様の欲望が見えるね。だが、決定的な『殺意』が足りない。彼らにとって、阿久津は生かしておいて金を絞り取るべき牛だ。殺してしまったら、今の彼らのパニックが証明するように、自分の首を絞めることになる」
「じゃあ、やっぱり外部の、詐欺被害者による犯行……?」
「それも少し違う気がするんだ。南さん。さっきのピザ、手付かずだったのを覚えているか?」
「ええ。長谷川さんの遺体の横にあったピザは、ほとんど手付かずで冷え切っていました」
「犯人は、阿久津を殺しに来た。だが、そこにいたのは長谷川だった。……普通なら、そこで計画が狂って逃げ出すか、あるいは詐欺の主犯でなくても逆上して滅茶苦茶に刺すはずだ。でも、長谷川は一突きで、綺麗に仕留められていた」
少し考え込む柊。
「ピザ屋の場所を調べてくれないか。一番近い店舗じゃなく、あの家に配達をした店の」
「……ピザ屋? それがどうしたんですか」
「南さん。君はさっき、阿久津の自宅の豪華さに気圧されていただろう? だが、あそこでピザを頼んだ長谷川という男の心の中には、もっと別の風景があったはずだ。……亡霊を捕まえるには、まず彼が最後に見た景色を辿る必要がある」
柊さんはそう言って、私の耳元で楽しげに囁いた。
「今夜の晩餐は、少し脂っこいものになりそうだ」
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