凱旋門から見る景色は壮大だった。何百段もの階段を上った甲斐があったというものだ。そこかしらにあふれる秋の果実のように豊かなる装飾が、彼らのこころを彩ってくれる。
「ああうん――気持ちいい!」
伸びをするふくよかな胸につい目が行く。これから観光を終えてからホテルに戻り、たっぷり愛し合うことを考えると、否が応でも股間が熱くなってしまう。妄執振り払い、広坂は、
「楽しみだねえ……いろいろと」にこやかな笑顔で取り繕い、「ぼく……パリは初めてだから。ものすごい、期待している……」
11月2日。そろそろ風が冷たさを帯び始める初冬の気配を感じながら、残されたあたたかみを味わうこの季節。四季折々、季節が移り変わるごとに、広坂は新たなる楽しみを見出す。夏妃と結ばれた夏は格別だった。それから初めて味わう秋の空気……美味しいものをたくさん食べた。結婚式もあった。全身ピンクでこれじゃパー子だね、と笑いあった。彼女と過ごす日々が増えるほどに、あたたかい記憶という思い出が広坂の胸に刻まれていく。それは、生きる楽しみ――そのものであった。
新婚旅行でパリに来ている。夏妃は大学の卒業旅行で一ヶ月ほどヨーロッパを周遊したらしい。広坂のほうは卒業直前の頃はバイトで忙しく、友達とアメリカに一週間行った程度。夏妃の友達のいるニューヨークにするという案もあったのだが、この機会を逃せば二度とヨーロッパを訪れる機会などない……夏妃が強く主張した。ロンドンとパリで迷ったのだが、ルーブルにもう一度行きたい。ガイドブックや個人ブログに目を通し、二人の結論はパリで落ち着いた。
人々、車の数々、夏の名残を残す緑……眼下に豊かな世界の広がる凱旋門を出、アーチの下の花や幾何学模様の装飾に目を凝らし、そこから続くシャンゼリゼ通りを練り歩く。街路樹に囲まれた大通りは、整然と建物の色が白亜で統一されている。マクドナルドはモノトーン。黄色が目印だというのに、彼らは自己を主張するよりも歴史を重んじることを優先するようだ。そういえば、フィギュアスケートなんかも見てみると、フランスが会場だと広告が青白で統一されている。あれと比べると他国で見かける広告がけばけばしく感じられる。フランス人の美学なのだろう。
ルイ・ヴィトンの店に入ってみると、日本人の店員がいることにも驚かされたのだが、もっと驚いたのは中国人の多さだ。まるでバーゲンセールのようにわんさか集まり、すごい勢いで買っていく……世界の経済を支えるのは中国。ブランド店は世界の縮図だと思い知らされた彼らであった。
二百本以上の街路樹に挟まれたシャンゼリゼ通りを鼻歌混じりで歩き、グラン・パレやプチ・パレを見学し、あのマリーアントワネットが処刑されたというコンコルド広場へと辿り着く。車通りが多く、どこの世界でも都市は……活気があふれているものだと、思い知らされる。
カフェでランチをしたのちに、せっかくなのでと地下鉄で移動し、続いてはエッフェル塔へと。パリは、どこもかしこもスケールが大きい。シャイヨー宮からエッフェル塔のすごさを眺め、シャン・ド・マルス公園を練り歩きながら塔に到着。どこの観光名所もこうなのか。塔の足元には怪しげな金属アクセサリーを売る売人が観光客をタゲっていた。気にせず塔内へと進む。チケットは日本で予約済み。予約なしの列は長蛇の列となっており、予約したのは正解だと思った。入場後、エレベーターに乗り、最上階へと。
「わあ……!」彼女が声をあげる。青空の下、パリ360度を見渡せるこの景色。ガイドブックを手に、ねえあれがセーヌ川だね、あれがルーブル……! きゃっきゃと楽しい時間を過ごす。閉所恐怖症の広坂であるが、エレベーターで到着するまでのあいだ、彼女はずっと手を握りしめてくれていた。心強かった。
上空の次は水辺からだと。水上バスに乗り、今度はこちらからパリの全貌を眺めに入る彼らである。パリ全体の大きさはすっぽり山の手線が収まるほどの大きさだと聞くが、それ以上のなにかを彼らに与えてくれている。川沿いに景色はどんどん移り変わる。あああれがオルセーだね……焼けちゃったノートルダムだね……時にはしんみりと、ほとんどがわくわくと、パリのエキサイティングな街並みを眺めいる。日本とは違い、通りが広く、古く高さのある建造物が多い。白亜の豪邸を眺めているとなんだか、自分が中世の主人公になったかのようだ。
水上バスを降りると今度はパレ・ガルニエへと向かう。通称オペラ座。一度見ただけではオペラ座の怪人のよさがまったく分からなかった広坂であるが、いざ入ってみるとそこは格別。宮廷のような外観、内部の荘厳たる装飾に圧倒される。息をするのも忘れたくらいだ。「夢の花束」と言われる有名なシャガールの天井画と輝くクリスタルのシャンデリア。天井画にも注目だ。はだかの男女はラヴェルの『ダフニスとクロエ』に違いない……原曲を知る広坂としては、目からあふれでるものを堪えきれない。
「あら、あら……」気づいた彼女にティッシュを手渡される。バルコニーからやや身を乗り出し、劇場内を鑑賞する。「すごいね……飲み込まれそうだ」
ロビーであるグラン・フォワイエは高さ18m、長さ58m、幅13m。豪華絢爛、たっぷりのシャンデリアが垂れ、天井画に装飾を施された空間は、まさに宮殿のようであり、広坂と同じく、目を奪われる観光客がほとんどであった。美は、国境を問わない。美しいものを目の当たりにすれば人間、動けなくなる……その摂理はみな同じであった。肌のいろや、国が違えど。
「エスカルゴ……すっごく美味しい」
夜になるとオペラ座にほど近いレストランにて、夕食を堪能する彼らである。「食べたことなかったけど……いけるね。うん。旨い……。
明日が、ヴェルサイユで、その次がモン・サン・ミッシェル……だっけ?」
予定を反芻する広坂に、「そ」と彼女は頷き、
「美術館って月曜火曜がお休みのところが多いから……美術館めぐりは後半に回しましょう」
今回、飛行機とホテルのついたツアーを申し込んだ彼ら。空港からホテルまでは送迎がついているが、以外はフリー。ともあれ、彼らは事前にオプショナルツアーを申し込んだ。ヴェルサイユ宮殿、モンサンミッシェル、それにパリのナイトツアー。
「楽しみだね」と彼女は笑う。「自分で切符買って行くのも旅の醍醐味だけど、ちょっとね、わたし、フランス語とか出来ないから……任せられるところはお任せしちゃいましょう」
微笑む彼女を見て、これからの旅がもっともっと楽しくなるであろうことを確信する広坂であった。
「ああ……写真で見て、ここ、ずっと行きたかったの……」
長さ73m、幅10.5mもの広さを持つ、あまりに絢爛なる鏡の間にて、感極まる彼女の肩を抱く。「すごいね……いくらスマホで撮っても、この迫力だけは伝えきれないわ……」
ぐすん、と鼻をすする彼女に広坂は笑った。「そんなに感動してもらえるのなら、作った甲斐があったというものだね……作ったひとも。えーと。1661年から五十年もの歳月をかけて……作られたんだっけ?」
中を見学したのちに、宮殿前の庭園を眺める。……すごい。広すぎる……。視界いっぱいに緑豊かな庭園が広がる。全部を回りきるには何時間かかるだろう? 作った側の執念を感じるほどの迫力。あと一時間ではとても見切れないので、一ヶ所に絞って彼らは攻めることにした。――愛の神殿。王妃がフェルゼンと逢瀬を重ねた場所……。ロマンティックな神殿のなかでふたりはあまい口づけを交わした。
バスでホテルに戻ると二人は愛し合った。真に、荘厳なるものを見つめると人間、素直にならざるを得ない。人間の真性を理解するふたりであった。
パリからモン・サン・ミッシェルへは、車で二時間強。海の上にたたずむエスカルゴのような城……これを夜ライトアップされているのを眺めたらどれほど美しいだろう、と広坂は思う。真夜中は別の顔。時間を変えれば顔が変わるのは、女も、遺跡も、同じである。名物ガイドの解説に聞き入り、また眠たさを感じながらも到着し、シャトルバス発着所から歩いて……神秘の巡礼島へと向かう。海に囲まれた聖ミカエルの聖地へと。
王の塔を眺め、王の門をくぐり、グランド・リュと言われる、メインストリートを歩き進み、いよいよ目的地である修道院へと辿り着く。階段がやたら多い。天井が高い。見るものが――多い。なかでも、広坂が目を奪われたのは聖エティエンヌ礼拝堂。キリストの亡骸を抱くマリアの目が印象的で、釘付けとなった。
「すごかったね……」
「うん」こういうとき、いつももどかしい。言葉だけでは伝えきれない、けれどこの感動を言葉でどうにかして伝えたいことが。広坂の目が捉えるは、干潮時であるゆえ、満潮時は海になっている個所を裸足で歩くひとびとの姿だ。かつてひとびとはここを目指して集ったという。なにを求めて……なにを祈ってきたのであろう。この、祈りという現実が集結する、荘厳なる修道院に。
帰りのバスではやっぱり、寝てしまった。パリはスリが多いというから、気を張ってばかりいた。こうして安心できる日本人ばかりに囲まれていると、いかに自分が日頃から平和に恵まれているのかと……感じながら、広坂は安らかなる眠りへと身を任せた。フランスの歴史を語るガイドの声をBGMに。
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