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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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二通目は、十二階から戻った翌日の夕方に届いた。
同じ洋封筒、同じ代書屋の用箋。同じ細い明朝のタイプ。
「二十日午後五時、十二階ノ上ニテ受ケ渡シ。百円ヲ使ノ者ニ渡セ。恋文ハ引換ニ返ス」
百合絵様は、文机の前で用箋を握りしめていた。
「使いの者、ですって」
「隆之様ご自身が来るはずです。誰かに頼まれただけの、親切な従兄の顔をして」
百合絵様が、唇を噛んだ。
「どうするの。お義姉さん」
私は、用箋をルーペで見ていた。
今度の文面には「様」の字がない。用心したのか、たまたまなのか。
けれど、紙は同じ松葉堂の用箋だった。罫の刷りの、同じところが同じようにかすれている。
「二十日の五時に、十二階の上へ行きましょう。百合絵様と、私と」
「お金なんて、ないわよ」
「お金は持っていきません。持っていくのは、紙です」
百合絵様は、きょとんとした。
「紙で、どうやって隆之さんに勝つのよ」
「隆之様は、紙で百合絵様を脅しました。だから、紙で返します」
私は二通の用箋を重ねて、百合絵様の前に置いた。
「人の前で、この紙が誰の手から出たものか、一枚ずつ見せるんです。隆之様が一番見られたくない人たちの前で」
百合絵様は、長いあいだ用箋を見下ろしていた。それから、小さく頷いた。
*
翌日、私はもう一度、松葉堂の格子戸を開けた。
鼻眼鏡のご主人は、私の顔を見るなり煙管を置いた。
「来たね、活版屋の娘さん」
二通目の用箋を見せると、ご主人は鼻を鳴らした。
「うちの用箋だ。あの若様、また来やがったよ。三日前だ。今度は機械を借りるだけで一円しか置いていかなかった。しみったれたもんだ」
ご主人は、鼻眼鏡の奥で目を細めた。
「来るなり、近頃このあたりで妙な娘がうろついてなかったか、と訊きやがった。知らねえな、と言っといたよ。あの手の男は、自分が見張られてるとは夢にも思っちゃいない。見張る側だと思ってるからね」
「二十日の五時に、十二階の上で、この手紙の受け渡しがあります。そこへ来ていただけませんか」
「行ってどうする」
「その場にいる人たちの前で、この人だと言っていただきたいんです」
ご主人は、しばらく天井を見上げていた。
「娘さん。あの若様は、六区の射的屋の二階で、華族の娘から金をせしめてやるって吹いてる。仲間連中は、本当にやれるもんかって面白がってるよ。あいつは、その連中に借金があるんだ。返す当てに、この話をしてる」
「その方たちに、二十日のことは」
「どうせ見物に行くだろうさ。あいつが自分で言いふらしてるんだから」
ご主人は、にやりと笑った。
「なんなら、わしが射的屋で一言、言っといてやろうか。二十日の五時、十二階のてっぺんで、若様の大見得が見られるってさ」
私は畳に手をついて、深く頭を下げた。
隆之様が強請りを自慢にしている、その仲間たちの前で、自慢の種を一つずつ剥がしていく。
借金のある相手の前で、恥をかく。あの人にとって、それが一番こたえるはずだ。
*
その夜、洋館の厨房で、私は匙を置いた。
「旦那様。お話ししなければならないことがあります」
侯爵様は鍋を火から下ろし、私の向かいに座った。
私は、全部話した。
藤棚の下で泣いていた百合絵様。活動写真館の暗がり。隆之様と恋文の束。真珠。タイプの恐喝状と、差し替えの「様」。鉛筆でなぞった偽の恋文。松葉堂のご主人と、金の指輪。二通目の手紙。
十二階の写真屋のことだけは、言わなかった。
雁皮紙は、今も帯の内側にある。
侯爵様は、最後まで一言も口を挟まなかった。
話し終えると、厨房の時計の音だけが残った。
「なぜ、私に話す気になった」
低い声だった。
「百合絵様には、お兄様にだけは言わないで、と頼まれました。約束を破ることになります」
「では、なぜ」
「十二階の上で、隆之様が百合絵様に手を伸ばしたら、私では止められません。紙を読むことはできても、男の人の腕を払うことはできませんから」
私は膝の上で手を握った。
「約束を破っても、百合絵様に何かあるよりは、ましです」
侯爵様は、左の眉を指でなぞった。
長いあいだ、そうしていた。
「……篠原のことは、知っていた」
「え」
「去年の暮れからだ。百合絵が書生部屋の前をうろうろしていれば、嫌でも目につく」
私は口を開けたまま、侯爵様を見ていた。
「では、どうして」
「篠原は真面目な男だ。百合絵が自分で言いに来るまで、待つつもりだった」
侯爵様の声は、相変わらず平らだった。
けれど、百合絵様が思っているような、家の名前のことしか考えない兄の声ではなかった。
「隆之のことは、私が片をつけてもいい。叔父上を呼びつけて、今夜のうちに」
「いいえ」
私は首を振った。茶会の前の晩と、同じように。
「旦那様が叔父様を呼びつければ、隆之様はしらを切ります。恋文は、どこかに隠されたまま残ります。百合絵様は、いつまた同じ目に遭うか、怯え続けることになります」
「……人の前で、やるつもりか」
「はい。隆之様の仲間の前で。あの人が一番見栄を張りたい人たちの前で」
侯爵様は、また黙った。
それから、ふいに立ち上がった。
戸棚から小さな缶を出して、私の足元に膝をつく。
「旦那様?」
「足を出せ」
有無を言わせない声だった。おずおずと足袋を脱ぐと、侯爵様は、まだ赤く擦りむけたままの指の股に、缶の膏薬を指先でそっと塗った。
手袋のない指は、思っていたよりずっと温かかった。
私は息をするのも忘れて、黒い髪のつむじを見下ろしていた。
「草履は合っているのに、まだ治っていない。歩きすぎだ」
「……申し訳ございません」
「謝るな」
侯爵様は缶の蓋を閉め、立ち上がった。そして、私を見下ろして言った。
「君の思うようにやれ。私は後ろにいる」
*
十九日の夜、百合絵様がまた私の部屋に来た。
寝台の端に腰かけて、何度も同じことを訊く。十二階では、どこに立っていればいいのか。隆之さんが何か言ったら、どう答えればいいのか。
「何も答えなくていいんです。百合絵様は、私の隣にいてください」
「お義姉さん、怖くないの」
「怖いです」
正直に言うと、百合絵様は目を丸くした。
「でも、紙は嘘をつきませんから。嘘をつくのは、紙を作った人だけです」
父の口癖を、少しだけ借りた。
百合絵様は、膝の上で指をもじもじと絡めた。
「……誠さんにも、話したの」
「明日のことを?」
「ええ。誠さん、すごく怒ったわ。百合絵さんにそんな危ない真似はさせられない、全部僕のせいなんだから僕がなんとかする、って。あんなに怖い顔、初めて見た」
百合絵様は、困ったように笑った。
「大丈夫よね。誠さん、真面目だもの。変なことはしないわ」
私は頷いた。
頷きながら、胸の奥で何かが小さく引っかかった。真面目な人ほど、追い詰められたときに一人で思い詰める。
侯爵様に話したことは、まだ百合絵様に言えなかった。
明日が終わったら、謝ろう。そう決めて、私は百合絵様を和館へ送り出した。
*
二十日の朝は、薄曇りだった。
私は帯の内側に、紙を順に重ねて入れた。
一通目の恐喝状。二通目。鉛筆の溝のある偽の恋文。百合絵様の本物の書き損じ。松葉堂で打ってもらった「母上様」と、家令室で打った「父上様」。
最後に、ルーペを帯に差す。
大丈夫。紙は揃っている。
廊下を、誰かが走ってくる足音がした。
扉が、叩くというより打ちつけるように鳴った。
開けると、寝間着のままの百合絵様が立っていた。髪も結っていない。顔が、紙のように白かった。
「お義姉さん」
声が、ひっくり返っていた。
「真珠の首飾りが、ないの。箪笥の引き出しから、箱ごと消えてるの」
コメント
1件
うわ、この終わり方ずるいですよ……! 真珠の首飾りがなくなったって、まさか隆之のやつ、さらに何か仕掛けてきたんですかね。それとも誠さんが何か動いたのかな。あと侯爵様が膏薬を塗ってくれたシーン、手袋外した指が温かいって描写にドキッとしました。後ろにいるって言葉もかっこよすぎる。紙で返すっていう主人公の姿勢、すごく好きです。次回が待ち遠しい!