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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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鍵束は、腰に下げると、歩くたびに鳴った。
玲司が発って、三日目の朝だった。千歳は夜明け前に起きて、廊下を拭かなかった。拭く代わりに、鍵束を持って、蔵の戸締まりを見て回った。柘植が「奥様のなさることでは」と言わなくなって、もうずいぶん経つ。
台所では、お初が膳を整えていた。離れの膳だ。
「お初さん」
千歳は言った。
「私が」
お初は手を止めた。止めて、千歳を見て、場所を空けた。
椀に、汁を注ぐ。温かいうちに。飯を盛る。焼き物を、一切れ。香の物。小さな膳だ。一人分の、少し少ない膳。若い人の、膳。
整え終えて、千歳は膳を見た。お初が、横から、指で数えた。椀、飯、皿、皿。
「奥様。足りてます」
お初は膳を持ち上げて、裏口から庭へ出ていった。梅の木の間を抜けて、離れへ。
千歳は、土間の上がり口に立って、それを見ている。自分が整えた膳が、あの戸の内側へ入っていく。
手が、何かを、している。
口が、動いている。節だけの、歌だ。気づいて、止めた。止めてから、もう一度、小さく、口の中で、続けた。
戻ってきたお初が、空の膳を見せた。椀が、空だった。飯も、皿も。
「奥様。今朝は、全部」
お初は、それだけ言った。言って、膳を指で数えた。空の椀を、一つずつ。
「いつもは、半分、残るんですよ」
昼は、鍵束の音で過ぎた。
蔵の鍵。帳場の鍵。柘植が一つずつ教えてくれた。文が転びながら茶を運び、とよが裏で洗い物をし、権田が自動車を磨いていた。
いつもの、御堂の家だった。玲司がいないだけだ。いないだけで、家は、少し静かだった。
「奥様」
とよが、裏の井戸端で、声を低くした。低くしているつもりの声だ。
「有明の屋敷に出入りしている米屋から、聞いたんでございますがね」
「ええ」
「梢様の、桂木様との縁談。あちらの母御が、有明の血筋の証を、と仰っているそうで。奥様の、ご実家の」
藤乃の、実家。旧家の出だと、藤乃は言っていた。梢は母方に旧家の血を引く、と。
「それで、奥様が、お困りのようで。証になるものが、見つからないと」
千歳は、聞いた。聞いて、何も言わなかった。
藤乃が困っている。それを聞いて、何かを思うべきなのだろう。思わなかった。思えなかった。藤乃の困りごとは、千歳の十年の、どこにも、置き場がなかった。
夕方、千歳は縁側に座った。
庭の向こうに、離れがある。梅の木の列。焦げた一本。白い障子。
鍵束を膝に置いて、千歳は、離れに向かって、口を開いた。
「今日は」
声は、小さかった。庭を渡るかどうか、分からない。
「蔵の鍵を、覚えました。帳場の鍵も。文ちゃんが、茶を三度、こぼしました」
返事は、ない。あるとは、思っていなかった。
「膳は、私が整えました。汁が、温かかったか、どうか」
縁側は、母屋の端だ。離れには、近づいていない。近づくな、と言われた線の、内側だ。内側から、声だけを、送っている。
「明日も、私が整えます」
言い終えて、千歳は、離れを見ていた。
障子に、灯りが、ともった。
まだ、日は落ちきっていない。それなのに、黄色い灯りが、障子に映った。
灯りが、動いた。
障子の、奥のほうから、手前へ。少しずつ。誰かが、灯りを持って、戸のほうへ寄ってきている。
千歳は、動かなかった。身を乗り出さなかった。乗り出せば、消える。
灯りは、障子のすぐ裏まで来て、止まった。
消えなかった。
千歳は、息を、ゆっくり吐いた。
「……おやすみなさい」
灯りは、そこに、あった。
夜になって、文が封書を持ってきた。
「奥様。有明の奥様から」
藤乃の字だった。整った、きれいな字。千歳は封を切った。
『梢の縁談に、障りが出ております。お前の身代わりのせいです。桂木家が、有明の血筋を疑っている。お前が、自分の口で、有明に非はないと言わぬなら、こちらにも手があります』
手。
『お前が、十年前に、行灯を倒して火を出し、妹を焼き殺しかけた女だということを、御堂に言います。あの男は、火で父を亡くしたのでしょう。火を出した女を、そばに置くかしら』
千歳は、手紙を握った。
妹を、焼き殺しかけた。藤乃の字で、そう書いてある。
十年前。
梢の部屋。行灯。煙。梢を抱えて、戸に手をついた。
そのあと、庭で、藤乃が言った。お前が、倒したのね。熱のある妹の部屋で、行灯を。
千歳は、覚えていなかった。倒した覚えも、倒さなかった覚えも。あの部屋に入ったとき、もう、燃えていた。それだけだ。それだけなのに、藤乃がそう言い、梢がそう聞き、十年、誰もそれを否定しなかった。
だから、不吉な手。だから、冷や飯。だから、穴埋め。
千歳は、右手を見た。
赤く、引きつれた痕。
これが、人を助けた手だと、あの人は言った。火の中で、人を助けようとした手だと。千歳が言った。同じです、と。
もし、それが、火を出した手でもあったなら。
火で父を亡くした人が、火を出した女を、そばに置くかしら。藤乃の字が、それを聞いている。
千歳は、答えを持っていなかった。十年、持っていなかった。持たなくていいように、袖の中にしまってきた。
手紙の字が、揺れた。
窓の外で、離れの灯りが、まだ、障子のすぐ裏にあった。
コメント
1件
玲司が居ないだけでこんなにも空気が変わるんだな…鍵束の音一つ一つが静かで、胸に染みた。離れの灯りが動いた場面、めっちゃグッときたわ。返事はなくても、確かに灯りが寄ってきたって描写に、千歳の孤独とこの屋敷の不気味な緊張感が凝縮されてると思った。藤乃からの手紙もやばい…あの火傷の痕が、人を助けた証でもあり、同時に鞭として使われるかもしれないって、見てて辛かった。続きが気になる!