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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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眠れないまま、朝になった。
千歳は縁側に出て、母の櫛を帯から抜いた。櫛を持つ手を見た。右手だ。黄楊の櫛の、欠けた歯が、朝の光で白い。
思い出そうとした。十年、思い出さないようにしてきたものを。
梢の部屋は、燃えていた。入ったとき、もう、燃えていた。行灯が倒れていたのか、倒れていなかったのか、見ていない。見たのは、蚊帳と、煙と、布団の上の梢だ。熱で、眠っている。呼んでも、起きない。抱えた。梢は小さくて、重い。煙で、戸が見えない。手で、探る。戸に、手をついた。熱かった。それだけだ。
庭に出て、梢を下ろして、そのあとのことは、よく覚えていない。覚えているのは、藤乃の声だ。お前が、倒したのね。熱のある妹の部屋で、行灯を。
そう言われて、千歳は、答えなかった。倒していない、と言う覚えが、なかった。倒した覚えも、なかった。ないまま、藤乃の言葉だけが、十年、残った。
櫛を、帯に戻した。
手紙を書かなければならない。藤乃より先に。あの人に。
「お嬢様」
とよが、縁側の下に立っていた。千歳の手元の紙を、見ている。書きかけの手紙だ。十年前の、と、そこまで書いて、止まっている。
「それは」
「旦那様に。奥様が、十年前のことを、旦那様に言うと」
とよの顔が、変わった。
「十年前の……火事のことを、でございますか」
「ええ。私が、行灯を倒したと」
とよは、縁側に手をついた。腰が曲がっているので、手をつくと、顔が千歳の膝の高さに来る。
「お嬢様」
声が、低くなった。とよの声は、いつも少し大きい。今は、低かった。
「あの夜、奥様は、家に、いらっしゃらなかった」
千歳は、紙を、落としそうになった。
「あたしは、口止めされて。奥様に。あの夜のことは、誰にも言うなと。言えば、暇を出すと。あたしは、咲子様のお嬢様のそばに、いたくて。だから」
とよの目から、水が落ちた。
「だから、黙っておりました。十年。お嬢様が、不吉と呼ばれるのを、聞きながら」
「とよ」
「それ以上は、あたしの口からは。申し訳ございません。申し訳ございません」
とよは、それ以上、言わない。前掛けで顔を押さえて、裏へ戻っていく。
千歳は、縁側に座っている。
奥様は、家にいなかった。
あの夜、梢は熱があった。熱のある梢を、置いて、藤乃は、家にいなかった。
では、誰が、行灯を倒したのか。千歳には、分からない。分からないが、一つだけ、分かった。十年、千歳を不吉と呼んできた口は、あの夜、家にいなかった口だ。
千歳は、手紙を、書き直す。
全部、書いた。
藤乃の手紙のこと。十年前、行灯を倒したと言われたこと。自分がそれを信じてきたこと。とよが今朝言ったこと。奥様は、家にいなかった、と。
それから、書いた。
『私は、倒した覚えも、倒さなかった覚えも、ございません。それだけは、本当のことです。奥様が旦那様に何を仰っても、私は、それだけを申し上げます』
封をして、柘植に渡した。柘植は時計を見て、言った。
「大阪には、二日かかります。要点だけ、先に、電報で打ちましょう」
「……お願いいたします」
権田が、電報局へ走った。
電報が返ったのは、夕方だ。
紙の上に、カタカナが並んでいる。文は短い。電報は、短い。
千歳は、両手で持つ。
ハナシハ カエッテ キク
シンジテイル
三行目はなかった。それだけだった。
柘植が、横から紙を見た。見て、時計を出さずに、言った。
「旦那様は、電報に、こういうことをお書きになる方では、ございませんでした」
「……こういうこと」
「シンジテイル、などと」
柘植は、それだけ言って、下がった。
信じている。
何を、とは、書いていない。倒していないことを、か。千歳の言葉を、か。千歳を、か。
分からない。分からないまま、千歳は、紙を、額に当てる。帯留めにしたのと同じことをした。紙は、冷たくない。権田の手の熱が、まだ残っている。
夜になって、門の外で、人力車が止まった。
一台だ。
文が玄関に出て、戻ってきて、困った顔をした。
「奥様。お嬢様が」
梢が、玄関の灯りの下に立っていた。
明るい色の着物だ。借り物ではない。千歳の知っている着物だった。藤乃が、まだ売っていない、残りの一枚。
「お姉さま」
梢は笑っていた。人前の顔で、笑っていた。
「お知らせに来たの。親切でしょう」
千歳は式台に立った。鍵束が、腰で鳴った。梢の目が、それを見た。
「明日」
梢は言った。
「母様と、叔父様が。親族を連れて、来るわ。あんたを、追い出しに」
笑ったまま、続けた。
「御堂様は、大阪なんでしょう。知ってるのよ。叔父様が、教えてくださったもの」
千歳は、鍵束を、右手で押さえた。
「あたしが」
梢は、玄関の灯りの下で、くるりと回った。着物の裾が、広がった。
「御堂夫人になるの」
文が、千歳の後ろで、息をのんだ。
千歳は、梢を見ていた。灯りの下で回る妹を。十年前、熱で眠っていた妹を、抱えて、煙の中を出た。その妹が、今、明日あんたを追い出す、と笑っている。
「梢」
千歳は言った。
「あの夜のこと。私から、話したいことがあります」
梢の笑いが、少しだけ、止まった。
コメント
1件
この「火事の夜」、重い真実が一つ明らかになるたびに、千歳の十年が塗り替えられていく感じが本当に巧みだなと思いました。とよの告白で「奥様は家にいらっしゃらなかった」と聞いた瞬間の衝撃——あの一行で読んでいるこちらも息を呑みました。それまで不吉と呼ばれ続けた千歳の孤独が、ただの誤解ではなく、誰かの作為によって作られたものだった可能性が見えてくる。伏線の配置と、父からの電報「シンジテイル」という三文字の重み。そして最後の梢——十年前、煙の中で抱えたあの妹が、今「あんたを追い出しに来るわ」と笑う。千歳が「あの夜のこと、話したい」と言ったときの梢の笑いが一瞬止まる、あの余白が心に残りました。続きが気になります。