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静かなギャラリーの片隅に、その絵はあった。
《陽だまりの隣》
青空の下、笑う6人の青年。
その中心にいる存在――それが、みことだった。
「……この絵、どこか寂しいけど、すごくあったかいですね」
若い男が呟いた。すちの新しい助手で、大学の後輩でもある青年だ。
「先生、この真ん中にいる子は……誰なんですか?」
すちはしばらく黙って絵を見つめていた。
やがて、ポツリと口を開いた。
「……俺の、初恋だよ」
青年は驚いた顔をしてすちを見たが、すちは視線を絵から外さず、淡々と続ける。
「高校のときの同級生だった。天然で、まっすぐで……ほんとに、まぶしいやつだった。
だけど、そいつは、高二の冬に病気で死んだんだ」
静かな沈黙。
「大学に入って、何も描けなくなった時期があった。
だけど、あいつが……“会いに来て”くれた」
「……会いに?」
「幽霊だったよ。誰にも見えない、俺にしかわからない。
でも……たしかにそこにいた。声も聞こえた。
絵を見て、泣いたり、笑ったりしてた」
青年は言葉を失っていた。
すちが語るのは、まるで――物語のような現実だった。
「その日、一日だけ触れ合える奇跡が起きた。
海に行って、花火をして……最後の夜、そいつはこう言ったんだ。
“すちが幸せになってくれたらいい”って。“でもちょっとだけ引きずってくれたら嬉しい”ってね」
すちは微笑んだ。絵の中のみことと同じように、優しく。
「だから俺は描き続けるんだ。あいつを、俺の絵の中に生かし続ける。
あいつが願った“俺の幸せ”を、手放さないために」
青年の目が潤んでいた。
「……その人の名前、聞いてもいいですか?」
すちは一瞬目を閉じてから、やわらかく答えた。
「みこと。
フルネームは……もう、秘密だ。俺だけの、大切な人だからね」
青年は黙って頷いた。
その日から――そのギャラリーに飾られた一枚の絵の前で、静かに立ち止まる人が増えていった。
理由はわからないけれど、あの絵を見ると、なぜか涙が出てしまうと――人々は語る。
絵の中心。
笑顔で空を見上げている青年がいる。
その透明な笑顔は、今日もずっと、すちの世界に生きていた。
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「先生、今日……少し残ってもいいですか?」
閉館後の静かなギャラリー。
薄明かりに照らされる《陽だまりの隣》の前に、青年は立っていた。
「……なんだ、怖くなった?」
「いえ。ただ、絵の前にいると……誰かの声が聞こえる気がするんです」
すちはその言葉に、少しだけ目を細めた。
そして、背を向けて小さく笑う。
「そうか。……君なら、見えるかもしれないな」
「……え?」
「いや、なんでもない。好きなだけ居なよ」
そう言い残して、すちは仕事部屋へと戻っていった。
青年は絵の前に立ち尽くす。
キャンバスに描かれたあたたかな世界。
笑い合う人々と、その中心にいる――
(……本当に、幽霊だったのか?)
ふと、風が吹き込んだ。
誰もいないはずのギャラリーに、やわらかな音が響いた。
鈴のような、笑うような――やさしい声。
「ねえ、君……すちのこと、好き?」
青年は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
すぐ背後、振り向いた先――
そこに、いた。
高校生くらいの、白シャツ姿の少年。
光のように淡くて、でも、はっきり“存在”している。
「……みこと……さん?」
「すごいね、すちが言ってたとおりだ。君、ほんとに“見える”んだ」
みことは少し寂しそうに、けれど嬉しそうに笑った。
「俺はもう、ここにはいない。だから……君がすちのそばにいてくれるの、すごく安心する」
「そばって……僕なんて、ただの助手で……」
「ううん。すちは誰にも見せない顔を君に見せてる。……俺には、もう触れられない分、君がすちの“今”に触れてくれるの、嬉しいんだ」
青年は口を開けたまま言葉が出ない。
でも、胸の奥があたたかくなる。
「……すちのこと、好きになってくれて、ありがとう」
みことの目が、やさしくまっすぐに青年を見つめていた。
「……でもごめんね。たぶん、すちの中には、ずっと俺がいる。
それでも、すちが幸せになれるなら、きっと誰かと一緒に笑っててほしい。
その“誰か”が君だったら、俺は……すごく、うれしい」
涙が落ちた。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
「――ずるいよ。こんな、きれいな愛を見せられたら、俺、何にも勝てない」
みことは小さく笑った。
「勝ち負けじゃないよ。
愛ってのは、手渡されるものじゃなくて、重なっていくものだから」
その瞬間、風が吹いた。
光の粒が舞い、みことの輪郭が、ふわりと空気にとけていく。
「じゃあね。……また、夢で会えたらうれしいな」
そう言って、みことは消えた。
そのあと
夜の帰り道。
青年はすちに電話をかけた。
『あの……先生』
「……なに?」
『……あの絵の真ん中にいる彼、俺、少しだけ見た気がします』
すちはしばらく沈黙し、低く笑った。
「……そうか。じゃあ、ちゃんと挨拶した?」
『はい。彼に、“すちのそばにいてくれてありがとう”って言われました』
「……あいつらしいな」
風が吹いた。
遠くの空に星がひとつ、瞬いた。
『先生。俺、これからも先生のそばで……絵を手伝ってもいいですか』
「ああ、頼りにしてるよ」
『……それともうひとつだけ』
「なに?」
『俺……先生のことが、好きです』
沈黙が返ってくる。
でも、それはきっと――遠い想い出に、やさしく触れたあとの沈黙だった。
「……知ってるよ」
そう言ったすちの声は、どこかあたたかくて、やさしかった。
君の輪郭に触れた日。
それは、永遠に続く恋じゃなくても。
忘れない愛があって、その隣に続く、もうひとつのあたたかな関係が生まれていく――
みことは、今日も空の上で笑っている。
「ありがとう」と言いながら。