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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
まず、義母から崩す。
離れからの小径を戻るあいだ、その言葉が耳の奥で何度も鳴っていた。
手の中の白い小箱が、雨に濡れないように、エプロンの下へ入れた。
勝手口の灯りの下に、ハッカ飴の匂いはなかった。
私は十時ちょうどに、半地下の部屋の灯りを消した。
*
翌朝、和館に朝のお茶を運ぶと、お義母さまはもう着物を着て、文机に向かっていた。
「佐伯さん。今日は、厨房のことはいいわ。蔵を掃除してちょうだい」
「蔵、でございますか」
「七夕に、茶会を開きます」
お義母さまは、筆を置いた。
文机の上に、和紙の招き状が三枚、墨の乾くのを待っていた。
「正客は坂上宗円先生。次客に、多恵子さん。主人の兄の家の、あの人よ」
多恵子叔母さま。
四十九日の席で、杉の陰まで聞こえる声で噂話をしていた人だ。お義母さまとは、嫁いだ頃からの仲の悪さだと、私は聞いていた。
「昨日のことは、もう白樺台じゅうに知れているでしょう。御影の嫁は経歴を偽っていた、と」
お義母さまは、背筋をまっすぐにしたまま言った。
「だから、茶会をするの。御影の格は、私が戻します」
扇子が、ぱちりと閉じた。
「主茶碗は、曙を使います。宗一郎が、いちばん大事にしていた赤楽。坂上先生も、ずっと拝見したいとおっしゃっていたの」
曙。
その名前を、私は知っていた。
蔵の二階のいちばん奥、黒い漆の箪笥の上段にしまわれた、桐の箱。私がこの家にいた三年間、誰かが開けるところを一度も見たことのない箱だった。
「蔵の二階を、全部拭いて。箱の埃も。曙は、私が立ち会うから、一人で触らないこと」
「かしこまりました、大奥様」
*
梅雨の晴れ間の蔵は、蒸し風呂のようだった。
閂を外して重い扉を開けると、黴と古い木の匂いが、熱と一緒に押し寄せてきた。
一階には長持と行李、二階には桐箱の山。天井近くの小さな換気窓から、細い光が一本だけ差しこんでいる。
私は手袋の下に、ゆうべの薄い手袋を一枚はめた。
指に吸いつくように沿って、濡れた雑巾を絞っても、傷にしみなかった。
棚を一段ずつ拭いていく。
箱の紐の結び目は、ほどかない。蓋の上の埃だけを、刷毛で払う。
この蔵を掃除するのは、二年ぶりだった。
二年前の秋、お義母さまに言いつけられて、私は一人でここを拭いた。
そのとき、いくつかの箱に、小さな引っかかりを覚えたのを思い出した。
紐の結び目が、新しかった。
箱の中から、樟脳ではない、真新しい布の匂いがした。
気のせいだと思って、私は誰にも言わなかった。
嫁が蔵の箱のことに口を出せば、何を言われるか、わかっていたから。
一階の長持を拭いているとき、手が止まった。
並んだ長持のうち、一つだけ、蓋を開けたときの中の深さが浅い。
外から測れば同じ高さなのに、底板が、手のひら一枚ぶん上にある。
家事をする手は、物の大きさを覚えている。
洗い桶も、鍋も、引き出しも。
私は蓋を閉め、何も見なかった顔で、次の長持に雑巾を当てた。
二年前の私なら、気づいても蓋を閉めるだけだった。
いまの私は、閉めた蓋の場所を覚えておく。入口から数えて、右の列の三つ目。
*
午後三時、お義母さまが蔵に来た。
二階の黒い箪笥の前で、お義母さまは桐箱を両手で取り出し、畳を敷いた一角に置いた。
真田紐をほどく指が、ためらいなく動く。
蓋を開ける。
古い金襴の仕覆に包まれた、丸いものがあった。
お義母さまは仕覆の口をゆるめ、茶碗を取り出して、私の前の畳に置いた。
「埃を払って。膝の上で、両手で持つこと。高いところに上げてはいけません」
「はい」
私は膝をつき、両手で、その茶碗を受けた。
受けた瞬間に、わかった。
重い。
赤楽は、手で土をまとめて形を作り、へらで削って仕上げる茶碗だ。
大きさのわりに、驚くほど軽い。両手の中で、ふわりと浮くように感じる。
母がそう教えてくれた。
鎌倉の店の奥で、まだ十歳だった私の手に、売り物の古い赤楽をのせて。
――目で見る前に、手で聞きなさい。いい楽は、手のひらに吸いついてくるのよ。
この茶碗は、吸いついてこなかった。
ただ、重さのぶんだけ、手のひらの上にのっていた。
刷毛で埃を払うふりをして、私は茶碗をそっと傾けた。
高台が見えた。
削りの跡の角が、鋭く立っている。何百年も人の手に撫でられてきた器なら、もっと丸くなっているはずだ。
土の色も、明るすぎた。
赤というより、新しい煉瓦の色だった。
「……どうしたの」
お義母さまの声で、我に返った。
老眼鏡の奥の目が、私の手元を見ていた。
「大切なお品と伺って、手が震えました」
凛の声で、そう言った。
これは、曙ではありません。
澪の喉の奥で、その言葉が出口を探していた。
私は唇を閉じ、刷毛を、もう一度だけ茶碗の胴に滑らせた。
「そう」
お義母さまは、茶碗を受け取った。
仕覆に包み、箱に納め、真田紐を結ぶ。その手つきが、ほんの少しだけ早かった。
「当日まで、この箱は茶室の床の間の脇に置きます。あなたは触らないこと」
「かしこまりました、大奥様」
お義母さまは、箱を抱えて蔵を出ていった。
着物の背中は、いつもどおりまっすぐだった。
けれど、蔵の扉の敷居をまたぐとき、足袋の爪先が一度、敷居に引っかかった。
*
その夜、十時に部屋の灯りを消してから、私は和館の納戸へ向かった。
廊下の板の、鳴る場所は知っている。
三枚目と、七枚目。踏まずに歩く。
納戸の奥、ミセス・グレースの束が並ぶ棚の、さらに下の段。
古い茶箪笥の、いちばん下の引き出し。
そこに、大学ノートが三冊、輪ゴムで留めて入っていた。
家計簿だった。
私が嫁いでから、三年間つけてきたものだ。
お義母さまは、家のお金の出入りを全部、嫁に記帳させた。生活費も、お義母さまご自身の通帳の記帳も。
「御影の嫁は、一円の狂いもなく家計を合わせるものよ」
その一言で、私は毎月、お義母さまの通帳を銀行で記帳し、数字をこのノートに写した。
左手で。いまの私が、決して人前で書けない字で。
懐中電灯を手で覆い、二年前の秋のページを開いた。
九月。お義母さまの通帳から、一千万円が三度に分けて出ていた。
振込先は、聞いたことのない「投資顧問」の名前だった。
その横の余白に、私の字で小さく「大奥様より、書かなくてよいとのこと」と書いてあった。
書かなくていい、とお義母さまは言った。
私は書かなかった、という印だけを、ここに残しておいたのだ。
ページをめくる。
十一月。現金で八百万円の入金。
同じ週に、三百万円が出ていた。振込先は、御影蒼真。
当時の私は、お義母さまが息子に事業の足しを渡したのだと思って、何も考えずに写した。
三千万の穴。
八百万の現金。
新しい紐の結び目と、真新しい布の匂い。
指先が、冷たくなった。
ノートを閉じ、輪ゴムを二重に巻いて、引き出しに戻した。
輪ゴムは、最初から二重に巻かれていた。去年の秋に最後に巻いたのは、私だ。この一年、誰もこのノートを開いていない。
*
厨房の鍵掛けから、蔵の鍵を外した。
裏庭は暗かった。
温室の向こうで、離れの窓に、まだ小さな灯りがついていた。
蔵の閂を、音を立てないように抜く。
扉を、体が通るぶんだけ開ける。
昼間の熱が、まだ中にこもっていた。
懐中電灯を口にくわえ、あの長持の蓋を開けた。
浅い底板の端を、爪で探る。
指が、わずかな隙間に入った。
持ち上げると、底板は思ったより簡単に外れた。
その下に、もう一段、暗い空間があった。
古い風呂敷包みが二つ。
その上に、薄い紙が一枚、置かれていた。
懐中電灯の光を、紙の上に落とした。
藍色の判が押された、売買の控えだった。
右肩に、「神田 瑞雲堂」。
いちばん上の行に、筆の文字が並んでいた。
赤楽茶碗 銘 曙 金八百万円
コメント
1件
わぁ、第22話「曙」、すごかったです!!😭✨ 澪の手のひらが「これは曙じゃない」って教えたシーン、めっちゃ鳥肌立ちました…! 家計簿の数字も、長持の底も、伏線が一気に動き出した感じがたまらなかったです。 お義母さまの足袋が敷居に引っかかった描写、あれ何かを隠してる感じがしてドキドキしました。 続きが待ちきれない〜!!草原草原さん、今回も最高でした📖💕