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「えーそうなの? だから桐島さん、荒石くんの教育担当やってたんだー。てまじ? 二股? まじ信じらんない……」
信じられないのはこちらだと言いたいのに。声が出せない。上手い反論の仕方が思いつかず。それに……このひとたちがこの後わたしたちの関係をどう評するのかに、興味がある。
「荒石くん、格好いいもんね。別人みたいだよね。……そりゃ、桐島さんじゃなくたってこころは動くよ」
「だからといって。あんな結婚式まがいのことしといて荒石くんに浮気するぅー? うわ、まじ、信じらんない……。人間不信になっちゃいそうだわ……」
こうして陰口を叩かれるわたしのほうこそ、本格的に人間不信になってしまいそうだが。
「でも、国内営業部の全員が見たんでしょう? 桐島さんが……荒石くんを引っかけるところ。酒が弱いとかなんとか嘘ついてさぁ。可愛い振りしてやることが卑怯だよねー桐島さん。そんな女の子だなんて思いもしなかった。がっかりだよ」
「まあ……ひとなんて本当は裏でなに考えてるか分かんないからさぁ。あー三田課長、フリーになったんだったら、こっち振り向いてくれないかなー。付箋でメモ貼っても、なぁんにもリアクションしてくれないんだよねーあの堅物課長ー」
「あはは。それが三田課長らしいっつうか。三田課長なんだよねー。桐島さん以外眼中ないじゃんあの男ー」
笑い合い、彼女たちは化粧室を出て行く。わたしは、個室を出た。そして、一呼吸。……陰であんなふうに思われていただなんて、知りもしなかった。平和なわたし……。
「やれやれ。頑張りますか……」よし、ペシミスティックモードオフ! 頬を叩き、鏡のなかの自分を見て気合いを入れる。誰にどう思われたって、いいじゃない。自分が思う、正しいことさえ。誰かを傷つけぬ限りにおいて、正しいことさえしているのなら……。
課長。課長のことが、心配だ……。昨日はあれから、自分のアパートに帰って、すぐに寝てしまったので、課長とまだ話せていない……。こうして出回る、口さがない噂に、痛めつけられていなければいいのだけれど。
お昼休みが終わるまで、あと十分。どうしようか迷ったけれど、わたしはポーチをロッカーに入れると、先ず――荒石くんのところに向かった。
「お昼休み中にごめんなさい」と、パソコンに向かってネットサーフィンをしていたかに見えた荒石くんに断りを入れ、
「悪いんだけど。立って。……握手をしてみてくれない?」
戸惑ったような荒石くん。間違いなく、あの噂を立てたに違いない彼は、無垢な顔をして席を立つ。右手を差し出すと、わたしは彼のその手を握る。
伝わる感触は、やはり――。
「うん。分かった。ありがとう荒石くん――。きみはやはり、わたしの運命のひとじゃないよ」
彼のほうから、振りほどいた。「なにを――言っているんです? 桐島さん。……おれは、あなたを愛している。課長よりもずっとずっと――」
わたしは毅然と告げる。「他人と、自分の愛の重さを比較する時点できみは間違っている。わたしの知る三田課長は、間違ってもそんなことを言わないひとだから。――わたしは、そんな三田課長が、好きなの。きみがどんななにを仕掛けようとも、この気持ちは、変わらない。
わたしは、三田遼一が、好き。
……噂なんか勝手にいくらでも流すがいいわ。そんな噂に乗るひとなんか、所詮その程度の関係だから。わたしは、自分の信じたいものを信じぬく。それが、生きるという意味なのだから……」
「説明しておくと」驚いた。課長の、声だ。「荒石くんは、自分の意志で、桐島くんに、新人教育を依頼した。……繰り返すが、自分の判断でだ。
桐島くんについての、口さがない噂は、すべて――誰かが、自分の欲求を満たしたいがために、蒔いたものだ。事実ではない。……そもそも」
課長は後ろから近づくとそっとわたしの肩を抱き、「普通に考えて、同じ会社の新入社員を浮気相手にする――んな効率悪いことをおれの莉子がするとでも思うか? ちったぁ考えろよ。噂を信じてはいけないよ――うん。山本リンダの言うことは正しい――。
さ。行こうか桐島くん――。
言いたいことは好きに言わせてやろうかと思ったが、おれの莉子が傷つけられるのを黙って見ていられるほど、おれはお人好しではなくってなぁ……。荒石くん」
「……はい」獣に射すくめられた獲物のように、委縮する荒石くんは、課長の言葉を待つ。
「もし、……莉子を本気で想うのならば。きみは、正々堂々と戦うべきだった。おれの莉子を傷つけた以上、きみは、おれの敵だ。莉子が許しても、おれは、きみのことを許さない」
「いや、あの。……三田課長。おれはそんなつもりじゃ……」
「えー。皆さん、見ての通りです。おれと桐島くんは、恋人同士で、荒石くんはフリーです。こんな彼を格好いいと思う者がいれば遠慮なく――口説いてくれたまえ」
始業三分前。わたしたちは連れ添って、席に戻った。「課長ったらもう……目立つの好きなんだから……」
「馬鹿。おまえがあんなふうに言われるのを黙っていられるか。――それに、何故、事前におれに相談しなかった。……ったく。おまえは勝手に突っ走るところがあるからなぁ……。これからはもうちょっと頼ってくれよ」
「心配かけてごめんなさい」とわたしは頭を下げた。「あの、でも……。これはわたしの問題なので、ひとりでどうにかしなきゃって……」
「何故、やつの手を握った」
「え? ……それは、彼の手を握ってもし、なにか感じるものがあれば、もうちょっと、やさしくしてあげようかなって……思ったんです」
「それで。結果は」
唇を尖らせる課長が、ある感情に支配されているのをわたしは感じ、笑みをこぼす。「全然……。課長と手を繋ぐときと違って、びりびりとかどきどきとか全然……しなかったんです。
中野さんと手を繋ぐときのほうが、もっと、ときめきますよ……」
「ここでなんであたし!?」いきなり話を振られた中野さんは、大きなお腹を擦って笑った。「お二人さんがラブラブなのはよく分かっていますから。大丈夫ですよー。あたしたちはちゃんと分かってますからー。お二人さんが、仕事中も恋心を募らせていて、必死に抑え込んでいるっていうことをー。今朝から課長、ずっと苛々しっぱなしで、いつ爆発するかってひやひやしてたんですからー」
わたしは驚いた。「そうなんですか? 課長……」
「始業時間だ。仕事に戻ろう」
なんだかはぐらかされた気がするが、ひとまず、自席に戻り、業務を再開する。
それ以降、おかしな噂はぴたっと収まった。代わりに耳に入るのは……
「荒石くんってば。今日も無意味に三田課長の周りうろついてたねー」
「ストーカーじゃない? でも三田課長、矛先が桐島さんから自分に移ったからかしらね。すごい、上機嫌じゃない? あんな笑ってる三田課長、初めて見たかも……」
ただでは転ばない男、三田遼一。
* * *
「えっと課長的にはどうなんですか。同性の……男性に迫られるっていう事態は……」
「ん? 莉子が無事ならおれ的には全然……」
気になってランチタイムに課長に聞いてみれば、課長は平然と、荒石くんのほうへと流し目をくれ、
「もしかして莉子は、おれが荒石くんに浮気でもしないかって心配している?」
「なわけないでしょう。ただ、わたしは、課長が大丈夫なのかなあって……」
「ははは。おれの莉子を悲しませたからには……容赦しないぜー」
唇を舐めて、背を向けて座る荒石くんのほうを向ける課長の目には、なにかしらの感情が燃えていて。……ああこのひと、敵に回しちゃ駄目なタイプの人間だと、改めて思い知らされた。
*