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――ゼルドア要塞城・裏手の小さな軍用桟橋。
霧が海面を這い、波の輪郭だけがゆっくり浮かぶ。潮の匂いが濃い。
小艇のエンジンは止めたまま、兵が縄を握って待っていた。
アデルは足を止め、リオの顔色を一瞬だけ確認する。
リオは平然としているが、脇腹の包帯はまだ新しい。
その時、アデルの右耳――魔術式イヤーカフが淡く光った。
『……聞こえる? 二人とも。ノノだよ』
声は早い。けれど、ただの早口じゃない。緊張で息が浅い。
『これから向かう“封印島ミラージュ・ホロウ”の説明、もう一回するね。
場所は王都イルダ近海。地図には「空白」みたいに描かれてるけど、
ちゃんと“ある”。ただ――普通の島じゃない』
リオが小さく顎を上げる。
「普通じゃない、って?」
『うん。昔、観測実験の関係で“境界が薄くなった”島。
簡単に言うと……世界の継ぎ目が“むき出し”になった場所。
霧が出ると、距離感が狂う。音が消える。方角も狂う。
それで人が戻れなくなったから、王国が封印した』
アデルが低く言う。
「だから“封印島”だ」
『そう。しかも今は、境界薄点の“中心”がそこに吸い寄せられてる。
行方不明の五人の意識信号も、そこに固まってる。
……リオの姉のユナも、たぶん同じ』
霧の向こうで、波が一度だけ強く揺れた。
兵が唾を飲み、視線を逸らす。
『注意点、三つ。
一つ。城から島まで、直線だと近いけど、潮流と霧で遠回りになる。
小艇で一~二時間。
二つ。上陸してからが本番。森と岩場を抜けて二~三時間。
途中で“海の音が薄くなる地点”がある。そこを越えたら、境界が濃くなる
――つまり、帰り道がわかりにくくなる。
三つ。そこで魔術を乱用しないで。反応して、余計に境界が割れる』
リオが静かに息を吐く。
「要するに、迷ったら終わりってことだな」
『……うん。だから迷わないようにするの。
アデルの左腕の腕輪、補正を強めに入れてある。
リオの腕輪と“対”で働くようにしてあるから、二人が近くにいれば、道はまだ掴めるはず』
アデルは小艇へ視線を移し、命じるように言った。
「出るぞ」
リオが一歩踏み出す。
「行く。……ユナを取り戻す」
イヤーカフ越しに、ノノが一瞬だけ声を落とした。
『……お願い。絶対、戻ってきて。
連絡は二十分おき。途切れたら、私、死ぬほど後悔するから』
霧が濃くなる。小艇の影が、海に溶けそうだった。
アデルとリオは無言でうなずき、桟橋を蹴って乗り込んだ。
小艇のエンジンが低く唸り、霧の中へ船首が突っ込んだ。
波は穏やかなはずなのに、船体だけが“見えない手”に押されるみたいに左右へ揺れる。
操舵席の兵が、眉をひそめた。
「……潮が変です。さっきまで、こんな流れじゃなかった」
アデルは短く言う。
「予定通り、沿岸線をなぞれ。霧の濃いまま沖へは出るな」
「了解」
リオは手すりに片手を置いたまま、波の音を聞いていた。
――いや、聞こえない。
さっきまで確かにあった、海の“ざわざわ”が、ふっと薄くなる瞬間がある。
「……海の音が、消えるな」
「ノノが言っていた地点だな」
アデルの左腕の腕輪が、淡く一度だけ光った。
リオの腕輪も、遅れて同じ色で返す。
その時、イヤーカフが微かに明滅した。
『……今、そこに入った?』
ノノの声が、いつもより小さい。
「入った」アデルが答える。
『じゃあ、ここから先は“しゃべりすぎないで”。音声も、引っかけられることがある。
……大丈夫、私はちゃんと見てるから。水晶板、ずっと監視してる』
リオが吐息みたいに言う。
「……無茶するな」
『無茶してるのはそっち! 脇腹! 痛いんでしょ!』
「少し痛む。でも動ける」
『それ、無茶する人の定型文!』
アデルが小さく咳払いして、会話を切る。
「二十分おきだ。無理に繋ぐな、ノノ」
『……了解。気をつけて』
霧が濃くなる。
空が近くなる。
遠近感が狂って、海と空の境目がわからなくなる。
操舵の兵が、急に声を落とした。
「……あれ、見えますか」
指の先。霧の奥に、黒い影が浮かんでいた。
島だ。
低い崖がむき出しになり、白い霧が“島の側”から湧いている。
鳥の声が一つもない。波も、さっきより静かだ。
アデルが目を細める。
「……ミラージュ・ホロウ」
リオはうなずくだけで返した。言葉にすると、何かが壊れそうだった。
◆ ◆ ◆
【ゼルドア要塞城・地下解析室】
ノノ=シュタインは椅子の上で膝を抱え、足先だけを小刻みに揺らしていた。
水晶板の画面には二つの地図――
異世界と現実が重なって表示され、同じ地点が脈打つように光っている。
「……重なり、強くなってる。ほんとに“同じ場所”になりかけてる……」
机の端に置いたレアのスマホが、勝手に一度だけ震えた。
ノノはびくっと肩を跳ねさせ、すぐ画面を叩く。
表示されたのは短いログ。
――“GATE / SYNC”
――“Thin Point : ACTIVE”
「……やめてよ……今は勝手に動かないで……っ」
ノノは深呼吸して、別の端末を開く。
そこには、切り取った“現実側の情報”――地図の断片と文字情報がまとめられていた。
「……セラ。お願い。今なら、まだ届くかもしれない」
ノノは送信魔術式を起動する。
水晶板の光が一瞬だけ青白く跳ね、細い糸のような光が空間へ伸びた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・雲賀家】
テーブルの上で、ハレルのスマホが一度だけ震えた。
画面がノイズで歪み、文字がチカチカと滲む。
《……海……沿……い……》
《……廃……ビ……》
《……クロ……ゲ……》
「……今、何か来た」
木崎が身を乗り出す。
「読めるか?」
「断片だけだ。海沿い、廃ビル……それと『クロ…ゲ……』」
サキが唾を飲む。
「クロスゲート……?」
ハレルはすぐ首を振った。
「まだ決めつけるな。
けど――“海沿いの廃ビル”って条件は、嫌なほど当てはまる場所がある」
木崎が目を細める。
「港湾の再開発区域。立ち入り禁止が多い。警備も厳しいぞ」
ハレルは胸元のネックレスを握る。金属が、少し熱い。
(リオが向かってる場所と、こっちの“海沿いの廃ビル”が重なってる……?
……なら、俺も動かないと)
だが、スマホはもう沈黙した。
今の情報だけでは足りない。場所を“特定”できない。
木崎が低く言う。
「焦るな。動くなら、動き方がある。俺が当たる。
お前は“記録”だ。写真でも、動画でも、証拠を残せ」
ハレルは小さくうなずいた。
「……わかった」
◆ ◆ ◆
【ミラージュ・ホロウ沖】
小艇が岩場に近づくと、海の色が一段暗くなった。
潮の匂いに、土みたいな匂いが混ざる。
操舵の兵が、喉を鳴らして言った。
「ここから先は上陸点です。……正直、帰りは保証できません」
アデルは短く答える。
「充分だ。お前たちはここで待機。霧が悪化したら、城へ戻れ」
「……了解」
リオが岩に手をつき、上陸する。
足元の石は濡れているのに、冷たさが薄い。変な感触だ。
アデルも続いて降りる。
振り返ると、小艇の輪郭が霧に溶けかけていた。
まるで、島が“帰り道”を消そうとしている。
イヤーカフが、かすかに鳴った。
『……二人とも、聞こえる?』
ノノだ。声が遠い。
「聞こえる」
『……上陸したね。島の中に入ったら、たぶんすぐ途切れる。
だから今言う。ミラージュ・ホロウの中心に近づくほど、境界は薄くなる。
でも薄いってことは、“混ざる”ってこと。現実のものが出てくることもある。逆もある』
リオが短く言う。
「……つまり、何が出てもおかしくない」
『うん。だから、絶対に一人にならないで。
二人の腕輪が一緒にある限り、まだ戻れる確率が上がる。……ほんとだよ』
アデルは剣の柄に触れた。
「了解した。必ず戻る」
通信がぷつりと切れた。
霧の中で、波の音がまた薄くなる。
島の奥から、何かが“呼吸”しているみたいな静けさが押し寄せた。
アデルとリオは視線を交わし、無言で歩き出す。
森と岩場の影が、二人の足元へゆっくり伸びてきた。
――封印島ミラージュ・ホロウは、入口を開けたまま、ひそやかに待っていた。