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#悪役令嬢
入れ替わってるのは俺じゃない!?
お昼の12時に主要キャラがライブシャッフルされる乙女ゲームに
用務員(固定)として転生した件
アスファルトが雨に濡れ、どんよりとした曇り空の灰色を鈍く反射している。大気の底に溜まったジメジメとした湿気と、排気ガスの不快な匂いが鼻腔を刺した。
渡辺まこと(わたなべ まこと)は、ただ自らの泥だらけの靴先だけを見つめて歩いていた。
「あいつのいない世界なんて、生きてたって何の意味もないだろ……」
口をついて出た掠れた声は、並木を揺らす冷たい風の音にかき消されていく。
頭の芯を重く支配しているのは、ほんの数日前、交通事故によって唐突に、あるいはあまりにも無慈悲に奪い去られた幼馴染――亜香里の、あの最期の笑顔だった。火葬場の煙を見届け、骨を拾い、黒い喪服を着たまま帰路についた今も、現実感が全く湧かない。
(なんで亜香里が死なきゃいけなかったんだよ。身代わりになれるなら、俺が死ねばよかったのに)
視界が涙でぐにゃりと歪み、足元の境界線が酷く曖昧になっていく。
そのときだった。
ストン、と。まるで世界の底が抜けたかのような感覚が走った。
「うわっ……!?」
下を向いて歩いていたまことの身体は、前方の道路にぽっかりと開いたままになっていた、工事用のマンホールの中へと吸い込まれるように落下していった。
重力に引かれ、真っ逆さまに落ちていく果てしない暗闇。鼓膜を風の音が強烈に叩く。死への恐怖で心臓が跳ね上がったその瞬間、なぜか奇妙な光景が網膜に強烈に焼き付いた。
それは、目も覚めるような鮮やかな金髪に、深い新緑の瞳をした少女の姿。彼女が着ているのは、現代日本には逆立ちしても存在しない、中世の貴族を思わせる豪奢なドレスだった。
(……なんだ、あの女の子……?)
疑問が形を成す前に、ドスン!! と、脳を直接ハンマーで殴られたような凄まじい衝撃が頭部を襲う。強烈な鈍痛の波の後、まことは五感が完全にシャットダウンしていく深い闇の底へと、静かに意識を沈めていった。
◇
カカカカ、モォォォォ――。
硬い蹄が床を蹴る音と、腹に響くような低い鳴き声。そして、何よりも鼻腔の奥の粘膜をダイレクトに破壊しにくる、圧倒的な悪臭。
まことは、その三連撃によって強制的に意識を覚醒させられた。
「う、頭が……割れそうだ。っていうか、なんだこの臭い……え?」
上半身を起こそうとして、手のひらにネットリとした、生温かくも奇妙な弾力を持つ「何か」が触れた。驚いて視線を落とすと、まことの手は、藁と、大量の瑞々しい「牛のフン」が隙間なく堆積した、最悪の床に深く沈み込んでいた。
「嘘だろ……牛舎!? っていうか、全身糞まみれじゃねえか!!」
パニックになりながら自らの身体を見下ろすと、着ていたはずの黒い喪服は、見事なまでに茶色い天然の肥料によってコーティングされていた。
必死に顔や服を拭うが、拭えば拭うほど悪臭が広がる。あまりのショックに血の気が引いていく。不審な絶叫に気づいたのだろうか、牛舎の入り口に、粗末な麻の服を着た見知らぬ村人たちが集まってきた。彼らは、肥やしを頭から被って呆然自失としているまことを、まるで未知の害獣を見るかのような冷ややかな目で見下ろしている。
「おい、なんだあの男……」「気味が悪い、あっちへ行っておくれ!」
その侮蔑に満ちた視線とヒソヒソ話に耐えかね、まことは顔を真っ赤に染めながら、裸足のまま牛舎を飛び出した。
「まずは水だ! 水場はどこだ!?」
半狂乱になりながら走ると、幸運にも近くに澄んだ水を湛えた川が見つかった。まことは周囲の目も気にせず、肥料の染み込んだ服を忌々しげに脱ぎ散らかし、冷たい川水へと飛び込んだ。
必死になって皮膚をこすり、泥とフンを洗い落とす。冷たい水が頭痛を和らげ、ようやく一息ついて川岸の岩場を振り返ったその時、まことは文字通り絶望で硬直した。
ゴロゴロとした岩の上に置いておいたはずのボロ服が、上流からの急な突風に煽られたのか、川の激しい急流に呑まれ、ぷかぷかと遠くへ流されていくところだった。
「待て! 待ってくれ! 俺の服――!!」
叫び声も虚しく、服はあっという間に濁流の彼方へと消え去った。
文明の利器をすべて失い、異世界の川岸に全裸で立ち尽くす男が一人。あまりにも理不尽な状況に心が折れそうになる。
(泣くな、泣くな俺……! ここで立ち止まったら、ただの変質者として捕まるか、野生動物の餌食だぞ)
まことは必死に灰色の脳細胞を回転させ、近くの湿地帯に生い茂っていた、人間の胴体ほどもある巨大な葉っぱの群生に目をつけた。
「……やるしかない」
ブチブチと葉っぱを毟り取り、しなやかな植物のツルを即席のベルト代わりにして、腰回りに強引に縛り付ける。
「……よし。即席・葉っぱのパンツ、完成」
お世辞にも文明人とは言えない、むしろ原始人以下の緑豊かな姿で、まことは恐る恐る近くに見える村の通りへと足を踏み出した。だが、この世界の治安維持システムは、そこまで甘くはなかった。
「おい、そこの不審者。止まれ! 動くと突くぞ!」
ガチャガチャと金属の鎧を騒がしく鳴らした衛兵が二人がかりで、ギラリと光る鋭い槍の穂先をまことの鼻先に突きつけてきた。まことは大慌てで両手を挙げ、必死に弁明の言葉を紡ぐ。
「違います! 変質者じゃないんです! 災難に遭って、牛舎に落ちて、川で服を流されて……!」
不審な「葉っぱ男」は即座に連行され、薄暗い詰め所の固い木椅子に座らされた。数時間に及ぶ一通りの尋問を終えた頃には、まことの顔は恥ずかしさで燃え尽きそうになっていた。しかし、その必死かつ哀れすぎる釈明が功を奏したのか、呆れ果てた衛兵が「これでも着ておけ。街の中でそれ以上、目を汚すな」と、カビ臭いボロい麻の服と、つぎはぎだらけのズボンを投げつけてくれた。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
人間の、織物の温もりに、まことは心の底から涙した。身分証の類は当然ないが、衛兵たちの温情によって「記憶を失った哀れな浮労者」として処理され、なんとか村の一角に滞在する許可が降りる。
しかし、一難去ってまた一難。今度は胃袋が引きちぎれんばかりの悲鳴を上げ始めた。
(腹が減った……。前世でも今世でも、ろくな目に遭わないな、俺は……)
飢えに駆られ、ふらふらと歩いていると、香ばしい肉の匂いと賑やかな笑い声が漏れ出る下町の酒場へと迷い込んだ。
「おい、そこの若造! 昼間から死にそうな顔して歩いてんなぁ!」
カウンターの奥で、すでに出来上がっている赤ら顔の酔っ払いたちが、まことのボロ服姿を見て容赦なく絡んできた。まことはもう取り繕う気力もなく、今日起きた悲劇のすべてを正直に話した。見知らぬ世界に落され、牛舎の肥料まみれになり、全裸で葉っぱのパンツを穿く羽目になったことを。
「――ぶっ、がっはははははは!!!」
静まり返った酒場に、次の瞬間、天井を揺らすほどの大爆笑が巻き起こった。
「なんだそりゃ! 糞まみれの葉っぱパンツだと!? 今年の最高傑作だな!」
「おい、この兄ちゃんにエールとスープを奢ってやれ!」
異世界の住人たちの、粗野だが豪快な優しさに救われ、まことは久しぶりに温かいスープと硬いパンにありつくことができた。五臓六腑に染み渡る温かさに、少しだけ生きる活力が湧いてくる。
その様子を、少し離れた席からじっと見つめていた男がいた。無精髭を生やし、日に焼けた肌と分厚い手のひらを持つ、いかにも職人の佇まいを残す男――ダボだ。彼はジョッキを置くと、ニカッと白い歯を見せてまことの肩を力強く叩いた。
「おい、まことって言ったか。お前、行く宛てがねえなら、明日から俺の仕事を手伝え。街の塀の修理が入っててな、人手が足りなくて困ってたんだ。寝床と、格安だが日当は出すぜ」
「えっ……本当ですか!? やらせてください、何でもします!」
翌朝から、まことは死に物狂いで汗を流した。前世での未練や悲しみを紛らわせるかのように、重い石材を運び、崩れた塀の隙間を漆喰で埋めていく。
「へへ、お前、細い割にはよく動くじゃねえか」
一日が終わる頃、ダボは満足そうに笑い、まことの泥だらけの手のひらに数枚の銅貨をねじ込んだ。
「ダボさん……本当に、ありがとうございます」
銅貨の冷たい重みを感じながら、まことの目に熱いものがこみ上げる。亜香里を失い、人生のどん底にいた自分が、この見知らぬ世界で確かに生きる足がかりを掴んだ瞬間だった。
(俺、この世界で生きていくよ、亜香里……)
しかし、まことはまだ知らなかった。彼という「予定外の異分子」がこの世界の底に定着したその瞬間から、世界のシステムが致命的な悲鳴を上げ始めたことを。