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nappa
52
6月の赤坂は、低く垂れ込めた雲の下でアスファルトが湿った熱を吐き出し、まとわりつくような湿気が肌をじっとりと濡らしていた。だが、俺の心は冷房の効いたタワマンの最上階で、かつてないほど躍っていた。
シズちゃんの会社が「夏休みのお家ご飯」の研究とやらで、リモートワーク推奨になったからだ。
天利「(つまり……シズちゃんがずっと家にいる!)」
組事務所へ向かう足取りも軽く、部下たちに「最近の親父はスキだらけだ」と陰口を叩かれても、鼻歌で返せるほどの余裕があった。
だが、その幸福感には「厳格なルール」が伴っていた。
シズカ「天利さん。10時から商品開発のWeb会議と、調理風景の生中継があります。
……絶対に、カメラに映り込まないでくださいね?
特にその……腕の『絵』が見えたら、即座に会社から事情聴取が来ますわ」
天利「分かってるって。
俺は今日、この城の『空気』になるよ」
とはいえ、ずっと自室に閉じこもっているのも寂しい。
俺は、インカムをつけたシズちゃんがカメラに向かって「夏野菜のラタトゥイユ」を炒める背後の、死角を縫うように忍び足で徘徊していた。
天利「(……暑いな。
冷房の温度下げたいけど、女の子は体が冷えやすいし、シズちゃん冷え性だもんなぁ……。
家の中だし、タンクトップとスウェットでいいか)」
油断だった。
シズちゃんが「こちらが完成品です」とカメラの角度を少し変えた瞬間、俺の後頭部が、画面の端をシュッと横切った。
さらに、床に落ちた菜箸を拾おうとして屈んだ俺の肩口から、蜘蛛の刺青の脚の先が、まるで生きているかのようにレンズを掠める。
同僚A「……ねぇ、今、蓼原さんの後ろに何か黒い影が見えなかった?」
同僚B「見えた。しかもなんか……模様というか、独特の威圧感がある影というか……」
同僚C「もしかして、噂のラスプーチン?
それとも不審者?」
優子「(……あれ、明らかにタトゥーか刺青の模様よね。
シズ、隠すならもっと徹底しなさいよ……)」
シズちゃんは笑顔を張り付かせたまま、慣れた手つきで画面のミュートボタンを叩いた。
シズカ「ちょっと天利さん!何をなさっているんですか!
予告なしのチラリズムはやめてくださいと申し上げたでしょう!」
天利「え? いや、死角を突いたつもりだったんだけど……ごめん」
シズカ「用件がないなら、一刻も早くキッチンから『退去』してください!
ほら、中継に戻りますわよ!」
シズちゃんは俺を背中で押し出すようにしてフレーム外へ追いやると、深呼吸をひとつ。
再びマイクをオンにして、何事もなかったかのように画面に向き直った。
シズカ「失礼いたしました。
……はい、お見苦しいものが映ったかもしれませんが、我が家のラスプーチンが少々『野生』を出してしまいまして。
生中継だと伝えておいたのですが、すっかり忘れていたようですわ」
同僚A「あーね」
同僚B「野生を出したって……」
同僚B「(映ったのは頭と服の模様……いや、タトゥーかな?
『ラスプーチン』とか『ジョ〇デ』に似てるらしいし、ワンチャン海外の方なのかも……)」
同僚C「(昆虫?爬虫類?
ちょっと……いや、かなり気になる……)」
優子「(……無理があるわよ、シズ)」
シズちゃんを怒らせてしまった俺は、彼女が朝から「仕事が終わったらアフタヌーンティーしたい、クロテッドクリームとジャムたっぷりのスコーン食べたい」と呟いていたのを思い出し、汚名を返上するため最高のご機嫌取りを画策していた。
まず組員達に「誰か、プロテクトクリームとジャムたっぷりのスコーンって知ってる?」と聞いてみるが誰1人知らず「昔、サワークリームオニオン味が売ってた」くらいの情報しか手に入らなかった。
組員:『とりあえずオーソドックスな味のヤツとサワークリームでいいんじゃないすか?』
天利:『それもそうだね……。
じゃあ買ってきてくれる?』
天利:『あとジャムもお願い。
ちょっといいヤツね。』
組員:『了解しました。』
数十分後、『スコーン』を2種類とサワークリーム、ちょっといいイチゴジャムを組員から受け取り、何かの見よう見まねで紅茶を淹れる。
シズカ「(天利さーん?何してるんですかー?
キッチンからガチャガチャ物音が聞こえるんですけどー?)」
同僚B「あの……何か聞こえません?」
シズカ「ノイズですかね?
私の家、高層階なので通信環境が悪いのかも……」
シズちゃんは、ダイニングに移動しパソコンに向き合ったまま自らが作った「夏野菜のラタトゥイユ」を食っていた(正確には食レポしていた)。
俺は、まだ中継中であることに気付かず、カメラの死角からすっと腕を伸ばした。
手には、淹れたての紅茶が入ったマグカップと、あの大手メーカーのスナック菓子『スコーン』の袋。
天利「シズちゃん、お疲れ様。
はい、ちょっと早いけどアフタヌーンティー」
シズカ「……っ!!?」
画面には、シズちゃんの驚愕の表情と、その横から不自然に伸びる、タンクトップの袖口から覗く逞しい右腕。
そして、マグカップの横に添えられた、オレンジ色と黄色のスナック菓子のパッケージが4K並みの高画質で映し出された。
シズカ「あ……あーーー!!
皆様! ちょっと、ちょっとだけ機材トラブルですわ!
カメラとマイク、一旦オフにします!!」
ガッ!!という鈍い音と共に、カメラは勢い余って天井を映し出した後、暗転した。
天利「(食べやすいように袋を開けておいてあげよう)」
片方の袋を開けた瞬間、『パァン!!』という破裂音が響き渡り、ミュートにする寸前のマイクが拾ってしまった。
同僚B「なになに何!?」
同僚C「何の音!?」
同僚A「まさか拳銃!?発砲事件!?」
優子「アンタ達、落ち着きなさい!
今、シズと連絡してみるから!」
同僚B「えっ!?男の人の声入ってたし、映ったのラスプーチンさんだよね?!!」
シズカ「……」
天利「え……シズちゃん? どうしたの?」
シズカ「……天利さん。貴方は、どうしてこう、ここ1番で『間違った方向』に全力なんですの……?」
天利「えっ、スコーン、これじゃないの?
めっちゃ美味いじゃん!バーベキュー味とチーズ味」
俺は首を傾げながら、自分もバーベキュー味のスコーンを1つ口に放り込む。
独特のジャンキーな味が口の中に広がり、カリッと咀嚼音と共に堪能する。
シズカ「美味しいですけれど!
スナック菓子の方ではなくてですね!
私が食べたかったのは、クロテッドクリームを塗る方の……小麦粉の……あの、もっとこう……っ!!」
天利「ああ、プロテクトクリームはないけど、サワークリームとイチゴジャムはあるよ」
シズカ「プロテクトではなくてク、ロ、テッ、ド!です!」
天利「んん?」
天利「(……。おかしいな、喜んでくれると思ったんだけどな。
……でも、慌ててるシズちゃんも可愛いから、結果オーライか?)」
シズカ「というか!まだ中継中だったんです!
天利さんの右腕も声も、袋を開ける音まで全部中継に乗っちゃいましたのよ!
同僚たちが『発砲事件じゃないか』って大騒ぎしてますわよ!」
天利「え……ごめん……」
俺の「カメラの前で気配を消す技術」の向上は、まだ少し先になりそうだった。
コメント
1件
うわー、今回も最高に笑わせてもらいました!「空気になる」って決意したのに、まさかのスコーン(スナック菓子)チョイスで台無しになる天利さん、愛おしすぎます。シズちゃんの「プロテクトクリーム」のくだりで思わず声出して笑いました。ラスプーチン呼びも定着してきて、同僚たちの反応がどんどん面白くなってるのがたまらないですね。次回、天利さんがどうリベンジするのか楽しみです!