回想を終えた今、耀の手はもう離れている。
よしっ。
今だ、しめしめっ、と和香は慌てて、床に転がっていたバッグをつかみ、一目散に耀の家から逃げ出した。
バタン、と玄関扉を閉めたあと、一応、近くにあった煉瓦を扉前に置いてみる。
泥棒が開けようとしても、すぐには開かないように、と思ったのだが。
よく考えたら、この扉は内側に開く扉だった。
意味がない。
内開きの扉は不審者を押し出すように閉められるので、防犯上はいいのだが。
靴を脱ぐ文化のある日本ではあまり浸透していない。
玄関の内側に扉が入ってくると、邪魔になるからだ。
だが、この広い玄関だとそんなことも気にならないんだろうな。
なんか輸入住宅かもしれないし、と見上げた和香は、ハッとした。
来たときには自分も酔っていたのでわからなかったが。
この家は、図書館前という最高の立地にある、あの白い家ではないかっ。
本好きな老夫婦が静かに住んでいるんじゃなかったのかっ、
と衝撃を受けながら、和香は自分のアパートまで歩いて戻った。
和香の住むアパートは、もう新しくはないが、手入れの行き届いたアパートで。
前庭の木々はよく整えられていて、美しい花々も植えられている。
やれやれ、と和香は二階の自分の部屋の前に行き、鍵を開けようとして気がついた。
鍵がないっ!
何処に忘れたんだろうっ?
呑み屋?
それとも、課長の家っ?
そういえば、さっき、カバンが床に落ちてた。
落ちた弾みで、鍵が飛び出したのかもっ。
革ででてきている、真っ赤なりんごの可愛いふかふかキーホルダーがっ!
いや、それ以前に、家に入って寝られないっ。
すぐ目の前にあると思った、ふかふかの布団が天竺くらい遠くなった。
課長は寝ているだろうし。
課長の電話番号も知らない。
……まあ、この時間にかけたら怒られそうだしな。
そう思い、とりあえず、呑み屋にかけてみたら、まだ店員さんがいてくれた。
ちょうど掃除を終えたところだが、そんなものは落ちていなかったという。
やっぱり課長の家かな。
幸い、近いし、鍵かけてないし、と思って戻ってみたが、何故かドアが開かない。
くっ。
課長が一回起きてかけたのかっ?
あるいは、まさかのオートロック!?
トボトボ和香はアパートに戻り、玄関前にしゃがんだ。
カバンの中からハンカチを取り出し、
「どうぞ、お嬢様~」
と自分に向かって言いながら、冷たいコンクリートの上に敷いた。
ははは……とむなしく笑う。
そのまま膝を抱えて、玄関で寝た。
朝、カンカンカン、と軽やかに階段を上がってくる音がした。
次に、
「うわっ」
と男の驚いた声が聞こえる。
「どうしたっ!?」
玄関前にしゃがんで寝ている自分に驚いて声を上げたのは、隣の部屋の住人、羽積宗高だった。
三階の奥さんが、
『羽積さんって、イケメンだけど。
なんの仕事をしているのか、よくわからない人よね。
朝帰りが多いし、筋肉質だから。
ガードマンか、土木工事の人か、バンドマンかしら?』
とか、いつも言っている。
だが、そのどれなのか、本人に確かめたことはないようだった。
その羽積に、
「なにやってんだ?」
と問われ、和香は、
「いや~、ちょっと閉め出されちゃいまして」
と苦笑いして答える。
羽積は手入れなどしそうもないのに、キリッと整った眉をひそめて言った。
「一人暮らしなのにか……」
「そう叫んだのは、あなたで二人目です」
と羽積に言うと、
「一人目は誰だ?」
と問われる。
もちろん、新聞屋さんだ。
和香は立ち上がりながら言う。
「新聞屋さんには、大丈夫です、と言って、爽やかにランニングに行くフリしてやり過ごしたんですけどね」
「……いや、何故そこで強がる」
「それにしても困りました」
と和香は振り返り、おのれの部屋のドアを見つめる。
「そろそろ中に入って着替えないと会社に遅れてしまいます」
羽積は髑髏のキーホルダーのついた自分の鍵を出してくると、それを見つめ、呟いた。
「うちの鍵で開かないかな」
「何故、開くと思うんです」
「同じアパートだから」
いや、そんな理由で全戸開いたら大問題ですよ……。
結局、目の前の不動産屋が開くのを待って、開けてもらった。
「へー、早く開く不動産屋さんでよかったわね」
と同じ部署の先輩、|蒼井美那《あおい みな》に言われ、
「いや、ほんと参りましたよ~。
鍵見つからなかったときのために、不動産屋さんに借りた鍵、コピーしとこうかな」
と言って、
「いやいやっ。
あんた、鍵落としたのなら、取り替えないとっ」
危ないじゃないっ、と言われる。
そのとき、
「あっ、お疲れ様です~っ」
と入り口にいた派遣社員の女の人の声が一オクターブくらい跳ね上がった。
耀がやってくる。
最近入ったばかりの人だから、課長の凶悪さは知らないようだ。
それにしても、珍しいな。
企画事業部になんの用なんだ、と和香が思ったとき、美那が耀の方を見ながら言った。
「今日も麗しいわね、神森課長。
でも、遠目に見るだけにしときたいわ。
近づくとなんか叱られそうだら」
そう言い、美那は、そそくさといなくなってしまう。
耀は部長と話したあと、帰ろうとした。
目が合う。
耀は目が合ったまま、視線をロビーに向かって流した。
つられてロビーを見た和香だったが、視線をまた戻す。
耀はそのまま和香を見つめていたが、和香が特に頷くでもなく見つめていると、ちょっと機嫌が悪い感じの表情になり、出ていった。
おっと、鍵鍵、と思い、慌てて渡り廊下で追いつく。
「神森課長」
と声をかけると、一瞬の間のあと、耀は振り向いた。
「あの、鍵……」
「やはりお前のか」
と耀は赤いリンゴのキーホルダーのついた鍵を和香の前にぶら下げる。
「あっ、ありがとうございますっ」
天竺への階段が今ここにっ! と、和香は恭しくそれを受け取る。
今日こそ、ふかふかの布団に潜り込んで寝よう、と思っていた。
冷たいコンクリートにしゃがんで寝たせいで、まだお尻が痛かった。
「視線で来いと言っても通じないから、昨夜のあれは夢だったのかと思ったぞ」
「ああ、すみません。
いやでも、そもそも、私、用もないのに課長を見つめませんから」
その言葉に、何故か、耀の機嫌が悪くなる。
「いや~、昨日、帰ってから気がついて。
一度、課長の家に伺ったんですけどね。
おやすみのようだったので、チャイム鳴らしたら怒られるかな~と思って」
鍵かけた覚えないのに開かないし、と愚痴って、
「うちはオートロックだ」
と言われる。
「やっぱりそうなんですか。
でも、自宅がオートロックって、怖くないですか?
まあ、課長なら、うっかり、ひょいっと郵便物とりに出て、締め出されるとかないですかね?」
「だから、うちの鍵は指紋認証だ」
あ~、と和香は声を上げた。
だから、あのとき、鍵を出した様子もなかったのに、扉が開いたのか、と思う。
「とりあえず、ありがとうございました。
いや~、もう不動産屋さんに借りた鍵、コピーするしかないかなと思ってたところでした。
自分の家なのに、こっそり合鍵作る犯罪者の気分でしたよ~」
「いや、鍵落としたら、鍵かえろ」
と耀にまで言われてしまう。
「ありがとうございました」
ともう一度、頭を下げると、
「今度から、そういうときは遠慮せず、チャイムを鳴らせ」
と耀は言う。
……意外とやさしいな。
でもまあ、今度はないと思いますけどね、と思ったとき、
「お前なら問題ない」
と言われた。
何故、私なら……?
と思っていると、耀はなにか言いかけたが、
「じゃあ」
とそのまま行ってしまった。
それから数日後、廊下で会った耀に、
「今日は暇か?」
と訊かれた。
「あ……はい、暇です」
「じゃあ、七時に駅前のトンカツ屋に来い。
ここで待っているのなら、乗せてってやる」
「あ、買い物があるので大丈夫です」
そうか、じゃあ、と耀は行ってしまう。
……なんで私、いきなりトンカツ屋に誘われたんだろうな。
この間、課長、送ってってあげたからかな?
そんな風に和香は思った。
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