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第十七話:黄金の演舞と、幻惑の宴会閣
温泉が湧き、庭園が芽吹き、厨房の火が宿の胃袋を満たす。朧月館は、かつての死に体から、妖しくも美しい巨大な魔宮へと変貌を遂げつつあった。だが、どれほど贅を尽くした施設が揃おうとも、そこに「興」がなければ宿は完成しない。客が求め、あやかしたちが酔いしれるのは、魂を震わせる調べと、日常を忘れさせる幻想的な演舞だ。
だが、宿の北側に位置する離れ――「月見の宴会閣」だけは、未だに重苦しい沈黙が支配していた。そこは宿の「華」が集う場所であり、同時にあやかしたちが己の格を競い合い、憂さを晴らす、隠り世でも随一の社交の場であったはずだ。
「……あそこには、先代に最も愛され、そして最も深くその純真さを踏みにじられた『化かしの天才』が閉じこもっておる。彼女の術が戻らぬ限り、この宿に真の夜明けは来ぬぞ」
玉藻が、かつての華やかさを知る者として、どこか寂しげな視線で離れを見やる。そこにいるのは、変幻自在の術を操る伝説の化け狸「お雛」だ。彼女は先代が去った夜、自分の得意とする「楽しい化かし」が主の心を引き止められなかったことに絶望し、宴会場を「色も音もない虚無の空間」に変えて引きこもってしまったのだという。
僕は一人、埃の積もった宴会場の重い扉を開けた。
扉を潜った瞬間、僕の視界を襲ったのは、まるで色褪せた古い水墨画のような、命の躍動を感じさせない灰色の世界だった。豪華なはずの畳も、金箔の貼られた屏風も、すべてが煤けたようなモノクロームに染まっている。
「……帰って。ここは、もう何にもない場所だよ。楽しいことも、面白いことも、全部消えちゃったんだから」
舞台の中央に、ポツンと座る少女がいた。頭にはふっくらとした茶色の丸い耳、腰からは太く柔らかな尻尾が、力なく垂れ下がっている。彼女は大きな蓮の葉を一枚、指先で所在なさげに弄んでいた。その瞳には、かつて「化かしの天才」と呼ばれた面影はなく、深い孤独の影だけが宿っている。
「お雛。宿はもう大丈夫だ。みんな戻ってきたんだ。一花のご飯も、小雪の冷たい酒も、全部揃っている。……あとは、君の術で、もう一度この宿を黄金に染めてほしいんだ」
僕が歩み寄ると、彼女は悲しげに首を振り、手に持った葉っぱを宙に投げつけた。
「……無駄だよ。信じてたって、みんな居なくなるんだ。楽しい夢は、覚めたらもっと辛いだけなんだもん。……だから、旦那様も、この『虚無』に飲まれちゃえ!」
その瞬間、周囲の灰色の空間が激しく歪み、無数の「影の化け物」が僕を包囲した。彼女の絶望が具現化した、実体のない恐怖。触れれば魂まで灰色に染め上げる、冷徹な拒絶の術だ。
だが、僕は一歩も引かなかった。三色の角をかつてないほど激しく輝かせ、僕自身の魂の熱を、霊力に乗せて周囲へと放射する。
朱色の熱が凍りついた空間を溶かし、黄金の光が灰色の世界に、かつて以上の鮮やかな色彩を取り戻させていく。銀白の清冽な静寂が、彼女の乱れた心を優しく、母親が抱きしめるように包み込んでいった。
「……あったかい。……なに、この光。……懐かしい、お日様の匂いがする……」
彼女の絶望が作り上げた術が霧散し、宴会閣に一気に鮮やかな極彩色が戻った。僕は舞台に上がり、お雛の小さな、少しだけ冷えた手を握りしめた。
「君の術は、誰かを騙すためのものじゃない。みんなを笑顔にするための、優しい魔法だろう? 僕が君の隣にいる。この三色の角にかけて誓う。君を一人にはさせない。だから、もう一度、僕のために踊ってくれないか」
お雛の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。彼女は僕の手をぎゅっと握り返すと、自身の葉っぱを頭にポンと乗せ、くるりと一回転した。
「……旦那様がそう言うなら、仕方ないなぁ……。狸の術、甘く見ちゃダメだよ!」
その瞬間、彼女の姿は眩いばかりの黄金の着物を纏った、絶世の舞姫へと変貌した。
その夜。一花が丹精込めて醸した霊酒が振る舞われ、宴会閣は数十年ぶりの熱狂に包まれた。
舞台の上では、お雛が放つ幻惑の術によって、天井には満天の星空が広がり、桜の花びらと黄金の木の葉が舞い散る中で彼女が優雅に舞い踊っていた。彼女が指を鳴らせば、酒はさらに芳醇に、料理はさらに豪華に化け、集まったあやかしたちの歓喜は絶頂に達した。
宴が引けた後。月光が差し込む、誰もいない舞台裏。
お雛は僕の裾を恥ずかしそうに引き、自身の太い尻尾をパタパタと左右に振った。
「……旦那様。……狸の恩返しはね、一生解けないんだよ。……化かされたまま、……私のこと、食べてくれる?」
彼女は僕を舞台の柔らかい緋毛氈の上へと押し倒すと、自身の術で周囲に「二人だけの、永遠に終わらない夢の庭」を作り出した。
化け狸特有の、柔らかで弾力のある、どこか温かみを感じさせる肉体。彼女が僕の三色の角に触れるたび、彼女の術が共鳴し、僕たちの周囲には幻の蝶が舞い、甘い蜜のような香りが満ち溢れた。僕の三色の霊力を吸い上げるたび、彼女の尻尾は嬉しそうに、そして力強く僕の腰を絡め取り、逃がさないように締め付けた。
「あ、ああぁッ……旦那様! ……ねえ、これ夢じゃないよね? ……旦那様の熱いのが、私の中に入ってくるの、……本物だよね?」
お雛は僕の首にしがみつき、自身の持つすべての「楽しさ」と「快楽」を、僕の霊力と溶け合わせようと必死に腰を振る。彼女の術によって増幅された快楽は、現実の境界を曖昧にし、僕はまるで黄金の海を泳いでいるような感覚に陥った。
「……旦那様。……もう、離さないんだから。……死ぬまで、この術の中で……私と一緒に、楽しいこと、いっぱいしようね……っ!」
幻影の中で繰り返される、甘く溶け合うようなまぐわい。それは、絶望を経験した少女が、新しき王にすべてを捧げる、最も献身的な「化かし」の儀式であった。
絶頂の瞬間、お雛の叫びと共に宴会閣の全域が黄金の光に包まれ、宿全体の霊的バランスが完璧な調律を迎えた。
事後、お雛は僕の胸の中で、本来の小さな姿に戻り、満足げに喉を鳴らしていた。
「……あーあ。旦那様に全部あげちゃった。……これでもう、お雛は旦那様がいないと、化けることもできない、ただの狸になっちゃったよ?」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女の目は、もう二度と灰色に染まることはないだろう。
だが、舞台の袖からは、お凛が「あの尻尾、引っこ抜いて天ぷらにしてやるにゃ……!」と爪を研ぎ、玉藻は「……狸の分際で、あるじを夢に閉じ込めるとは。……今夜は妾が、その夢を現実の熱で焼き尽くしてやろう」と言いながらも、自身の尾をかつてないほど激しく揺らしていた。