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第172話:結愛のストップ〜その金は、あなたの金ではありません〜
ダンボール箱に荷物を詰め込んでいた俺の動きが、ピタリと固まった。
「……は? 結愛、今なんつった?」
『ルシフェル様。言葉通りの意味でございます』
ディスプレイの中の結愛は、氷のように冷ややかな表情で俺を見つめ、一切の容赦なく言い放った。
『法人の口座にある四千八百万円は「会社の金」であり、社長個人である秋谷雪様のお金ではありません』
「な、何を当たり前のことを言ってんだよ! 株式会社インフィニティ・ワンは、俺が100%株を保有している俺一人だけの会社だぞ!? 会社の金=俺の金に決まってるだろ!」
『それが、個人事業主から「法人成り」した人間が最も陥りやすい、致命的な勘違いなのです』
結愛はため息をつくように、呆れたトーンで画面上の資料を切り替えた。
『個人事業主の時代であれば、事業用口座と個人口座の間で自由にお金を動かすことができました。「事業主貸」「事業主借」という勘定科目を使えば、口座から生活費を引き出そうが、高級焼肉を食べようが、何ら問題はありませんでした』
「そうだろ!? だから俺は、今すぐこの四千八百万円からタワマンの初期費用と引っ越し代を払うんだよ!」
『ですが——』
結愛の声が、一段と低く重くなった。
『法人は、法律によって生み出された「独立した人格(法人格)」です。たとえあなたが代表取締役であり、100%の株主であったとしても、秋谷雪という人間と、株式会社インフィニティ・ワンという会社は、法律上「まったくの他人」なのです』
「た、他人……!?」
『はい。他人のお金を勝手に自分のポケットに入れて個人的な買い物に使えば、それは世間一般で何と呼ばれますか?』
「……業務上横領?」
『正解です。法律的にも税務的にも、それは「私的流用」あるいは「横領」と同義とみなされます』
「ひっ……!?」
俺は思わず抱えていたダンボール箱を床に落とした。
ガタバシッと悲痛な音を立ててダンボールが潰れる。
「じゃ、じゃあ何か!? 法人の口座に四千八百万円あっても、俺はこの四畳半アパートから引っ越すことも、個人的に一円も使うこともできないってことか!?」
『厳密に言えば、会社から個人へお金を移動させる方法は存在します。ですが、あなたが考えているような「口座から勝手に引き出してタワマンの家賃を払う」という手法をとった場合、最悪の地獄が待っています』
画面に、ドクロマークと共に真っ赤な文字で【役員貸付金】という危険な単語が表示された。
『もし会社のお金を個人的な目的で引き出した場合、税務署はそれを「会社が社長に個人でお金を貸し付けた」とみなします。これを【役員貸付金】と呼びます』
「貸し付け……? 俺が自分の会社から借金したってことになるのか?」
『そうです。そして、会社は社長に対して「利息」を請求しなければなりません。さらに、金融機関からの信用はガタ落ちになり、銀行からの融資は二度と受けられなくなります。決算書に役員貸付金が載っている会社は、税務署から「公私混同のずさんな経営」と判断され、即座に税務調査のターゲットに指定されます』
冷や汗が背中をツーッと伝い落ちていく。
「じゃ、じゃあ貸し付けじゃなくて、『ボーナス』として俺に振り込めばいいじゃないか! 臨時ボーナス五百万円! それなら俺の給料だろ!」
『フフ……。甘いです、ルシフェル様』
結愛の唇に、残酷な笑みが浮かんだ。
『役員に対する臨時ボーナス(役員賞与)は、事前の届出がない限り【全額損金不算入】……つまり、会社の経費として一切認められません。会社側は経費にできずに莫大な法人税を払わされた上で、社長個人側でも高額な所得税と住民税、そして社会保険料がダブルでむしり取られるという、最悪の二重課税が爆発します』
「に、二重課税……!?」
『稼いだお金の過半数が税金として消えてなくなる魔法の仕組みです。お試しになりますか?』
「試すわけねえだろ!!」
俺は頭を抱えて四畳半の畳の上に倒れ込んだ。
40歳。元自衛官で元介護士。
泥水をすするような苦労をして、コールセンターの夜勤に耐え、ようやく立ち上げた自分の会社。
口座には四千八百万円という、人生で見たこともない札束の山がある。
それなのに——俺はそのお金で、引越しをすることも、高い肉を食うことも、ヨモに高級なキャットタワーを買ってあげることすら許されないのだ。
目の前にあるのに、触ることができない黄金。
まるでギリシャ神話のタンタロスの拷問だ。
「なぁ結愛……頼むから教えてくれ……」
俺は床に顔を擦り付けながら、掠れた声で懇願した。
「じゃあ俺はどうやって……どうやってこの会社から合法的に給料をもらえばいいんだよ……? 正しい手続きで俺の給料を増やせばいいんだろ!?」
『ええ、方法自体は非常にシンプルです。「役員報酬」を正しく設定すれば良いのですから』
「そうだろ!? 今すぐ役員報酬を月給百万円……いや、月給二百万円に変更してくれ! そうすればタワマンだって住める!」
立ち上がり、希望の光を見出したような目でモニターを見つめる俺。
しかし、結愛は冷酷に、トドメの一撃となる言葉を口にした。
『残念ながら……それも不可能です。日本の税法には、経営者を縛り上げる最も恐ろしいルールが存在するのですから』
「え……? 最も恐ろしいルール……?」
『はい。それこそが——【定期同額給与】の呪いでございます』
40歳の俺を待ち受けていたのは、法人成りを果たしたすべての経営者が一度は絶望する、税法の絶対不可侵の鉄則だった。
コメント
1件
うわああああ結愛ちゃんマジで有能すぎる😭💕✨「法人はあなたとは法律上まったくの他人」のくだり、めっちゃグサッときた…!主人公が「俺の金だろ!?」って叫ぶところ、気持ちわかるけど法律的にはそうなのか〜って勉強になったし、ドラマチックに描かれてて一気読みしちゃったよ!!定期同額給与の呪い…マジで経営者にとっては地獄のルールすぎん?笑 ルシフェル様がこれからどうすんのか気になりすぎて続きが待てない…!!
191
레몬인
201
そあち♡໒꒱
88
なんたろ
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