テラーノベル
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勝手口の外で、蝉が一斉に鳴いていた。
水無瀬さんは、私の答えを待っていた。
急かさなかった。ガムも噛まなかった。手帳の上に置いたボールペンの先だけが、私のほうを向いていた。
覚えていない、と言えばいい。
九か月、そう言い続けてきた。病室でも、面接でも、この家の食堂でも。
けれど、この人の質問には、もう答えが書いてある。
助手席の人間が、運転席側で焼けた。その理由は、一つしかない。
覚えていないとくり返せば、この人は、その嘘の継ぎ目を探しにまた来る。
手帳の一行が、二行になり、三行になる。
「……夢を、見るんです」
私は、上がり框の板の目を見ながら言った。
「同じ夢を、何度も。割れた窓から、泥の上に這い出すんです。雨が降っていて、車の前のほうが燃えている。運転席に、女の人がいて、動かない」
水無瀬さんのボールペンが、動きはじめた。
「私は、車の反対側へ回ります。運転席のドアが開かないので、窓から腕を入れて、シートベルトを外す。その人の腕をつかんで、引っぱる」
喉の奥が、熱くなった。
去年の十一月の炎の熱が、スカーフの下で、もう一度ふくらんだ気がした。
「そこで、目が覚めます。いつも」
それは、夢ではなかった。
あの人は、私の手を一度だけ握り返して、押し戻した。
行って、と唇が動いた。そこまでは、言わなかった。
水無瀬さんは、手帳に何行か書いた。
それから、ボールペンの頭で、こめかみを掻いた。
「夢、ですか」
「お医者様は、記憶が少しずつ戻りかけているのかもしれない、とおっしゃいました。でも、起きているときには、何も」
「なるほど」
それだけだった。
信じたとも、信じないとも言わなかった。
「このお宅の方には、おっしゃらないでいただけますか」
水無瀬さんが、眉を上げた。
「旦那様は、奥様を亡くされた方です。最後の様子を、家政婦の夢の話で、お聞かせしたくありません」
凛として言った。
本当は、違う。
蒼真がこの話を聞けば、私が何かを思い出しかけていると知る。あの人は、それを一番恐れて、私をこの家に置いている。
「……優しいんですね」
水無瀬さんは、手帳を閉じた。
嘘の中に、本当を一つだけ混ぜた。
全部を嘘で固めるより、そのほうが崩れにくい。この家で、私はそれを覚えた。
それでも、喉の奥がまだ熱かった。
一人で命を賭けないこと。榊さんとの約束を、今夜のうちに守らなければならない。
*
廊下のほうで、床が鳴った。
振り向くと、厨房の向こうの廊下に、麗奈が立っていた。
空のグラスを持っていた。水を取りに下りてきたのだろう。
麗奈の目が、上がり框に座る男の手元で止まった。
閉じたばかりの、黒い手帳。
「……刑事?」
かすれた声だった。
水無瀬さんは、立ち上がって軽く頭を下げた。
「どうも。白樺台署の者です。去年の事故の件で、家政婦さんにちょっと」
「事故」
麗奈は、その言葉をくり返した。
「前の奥さんの、事故? ……それだけ?」
「それだけ、とは?」
水無瀬さんが、首を傾げた。
麗奈の唇が、何か言いかけて、止まった。
グラスを持つ手が、白くなっていた。
付け爪の先が、グラスの縁で小さく震えていた。
「……べつに。この家に、警察なんか来ないでよ。赤ちゃんに障るでしょ」
麗奈は、水も汲まずに、廊下の奥へ戻っていった。
ヒールではなく、素足のスリッパの音が、ぱたぱたと遠ざかった。
前の奥さんの事故。それだけ。
麗奈が恐れたのは、私の事故ではなかった。
この家で、刑事が調べに来るかもしれないことが、もう一つある。四年前の秋の、二階の浴室。
夜の十時に勝手口から出ていった人。
十一時半に、初めて来たことになっていた人。
キーケースの中で、いまも黒ずんだ真鍮の鍵を鳴らしている人。
その人が、来週か再来週、この家の大階段から落ちるつもりでいる。
水無瀬さんは、麗奈が消えた廊下を、しばらく眺めていた。
「あの奥さん、真っ青になってましたね」
ガムを、口の中で一度転がした。
「妊婦さんだから、ですかね」
私は、答えなかった。
この人は、見たものを全部、手帳の外にも書いている。そういう目だった。
*
「事故ってのはね、片付けるのが一番簡単な事件なんですよ」
水無瀬さんは、トレンチコートを腕に掛け直しながら言った。
「誰も逮捕しなくていい。誰も裁判に出なくていい。遺族が、事故でいいと言えば、それで終わる」
「……旦那様が、そうおっしゃったんですか」
「旦那様も。それから、もっと上の方も」
水無瀬さんは、天井を指さした。
二階の書斎ではなく、もっと遠いどこかを指しているようだった。
「うちの署長、御影ホールディングスの偉い方とは、ゴルフ仲間でしてね。……今のは、独り言です」
ガムを、噛み直す音がした。
「現場の検証は、二日で打ち切りでした。俺は、もう少し見たいって言ったんですけどね。御影さんのところは、顔の広いお宅だ。密葬も、ずいぶん早かった」
去年の十一月二十二日。
事故の二日後に、私の葬式は終わっていた。
「あなたの主治医の先生にも、話を聞きに行ったんですよ。聖和医大の、東雲先生」
心臓が、跳ねた。
「口の悪い先生ですね。患者の話を聞きたきゃ令状を持ってこい、って追い返されました。……いい医者だ」
水無瀬さんは、少しだけ笑った。
東雲先生は、私に何も言わなかった。
月に一度の診察で、いつもどおり首の皮膚を引っぱり、線が歪んでいないかを見て、口の悪い冗談を一つ言っただけだった。
「俺は、あの事故を片付けたことを、ずっと後悔してるんです」
水無瀬さんは、ポケットから名刺を一枚出した。
角の折れた、白い名刺だった。
「何か思い出したら。夢でも、なんでもいい」
上がり框の上に、名刺を置いた。
私が受け取るのを、待たなかった。
私は、それを手に取った。
白樺台警察署、刑事課。水無瀬恭介。
裏を返すと、ボールペンの走り書きで、携帯電話の番号が一つ書いてあった。最初から、誰かに渡すつもりで書いてきた字だった。
この人は、敵だろうか。
それとも、いつか味方になる人だろうか。
わからなかった。
ただ、この人は、私の首のスカーフを見るとき、可哀想なものを見る目をしていなかった。証拠を見る目をしていた。
それが、少しだけ、ありがたかった。
*
和館から、お義母さまの声がした。
「佐伯さん。刑事さんを、門までお送りして」
追い出せ、という意味だった。
私が刑事と長く話すのを、あの人も好まない。理由は、私とは違うのだろうけれど。
勝手口から裏庭を回り、門へ続く石畳を歩いた。
水無瀬さんは、トレンチコートを肩に掛け、のんびりと私の後ろをついてきた。
温室の前で、源さんが鋏を止めて、こちらを見ていた。
水無瀬さんは、源さんに軽く会釈をした。源さんは、会釈を返さなかった。
「犬、いましたよね。赤柴の」
石畳の途中で、水無瀬さんが言った。
「去年、葬式のあとで一度ここに来たとき、えらく吠えられた。門の内側で、ずっと坂の下を見て鳴いてましたよ」
坂の下。
あの夜、私が帰らなかった道を。
「……いまは、離れのほうで、お世話になっております」
「そうですか。元気なら、いい」
門の外に、古い紺色の車が止まっていた。
「じゃあ、どうも。暑い中、すみませんでした」
水無瀬さんは、運転席のドアに手をかけた。
それから、思い出したように振り返った。
ガムの包み紙を、指先で小さく折りたたんでいた。
「そうそう。ブレーキホースの写真、まだ俺の机にあるんですよ」
蝉の声が、遠くなった。
「切り口が、妙にきれいでね」
コメント
1件
第36話、じっくり読ませていただきました。 水無瀬刑事の登場、すごく好きなシーンでした。夢の話をするところ、あれ嘘の中に一欠片の本当を混ぜるっていう主人公の人心術がゾクッとしました。あと、麗奈さんの「刑事」ってかすれた声も、何か知ってる感じがして余韻がすごいですね。 そして最後の「切り口が、妙にきれいでね」——ブレーキホースの写真、まだ持ってたんですね。事故が事故じゃなかったって、この刑事はもう気づいてるんだろうな。証拠を見る目で主人公を見てくれたって一文にじんわりしました。 次が待ち遠しいです。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
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