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「――この書類は……?」
数日後のこと。
王宮の一室、重厚な扉の前で側近エドワルドが手にした一通の封筒に目を細める。
金の封蝋には、オルスカ公爵家の紋章。
中には、完璧な筆跡で書かれた一枚の紙。
《婚約に関する再検討のお願い》
(……またか……)
彼はもう五通目になるその申請書を、ため息まじりに机の上へ置いた。
アルベール王子には……まだ渡していない。渡せるわけがない。
(あの方、令嬢に破棄されたら本気で寝込むからな……)
まるで王族らしからぬ繊細さだ。本人は気高い仮面を被っているが、実のところオリビアに関しては――極端に弱い。
***
一方、当のオリビアは、自室の鏡台に座りながら、使用人のミーナに小さく呟いた。
「……あの婚約、正式な書類さえ整えれば、いつでも解除できるのよ。なのに、なぜか全然進まないの」
「オリビア様、それはきっと王子様が止めてらっしゃるのでは……?」
「まさか。あの人、私の顔を見るだけで冷たくなるのよ?」
「(それは照れてるだけに見えますが……)」
ミーナの心の声をよそに、オリビアは真剣な眼差しで言葉を続けた。
「もし、これ以上続けてしまえば、私――本気で好きになってしまいそうで怖いの」
「えっ……」
「だって、あの人……確かに不愛想で、冷たくて、会話もほとんどしないけど……」
鏡に映る自分と視線を合わせる。
美しい白銀の髪。水色の瞳。
「……どうしてかしら。ちゃんと向き合ったこともないのに、なんだか胸の奥がざわつくの」
(オリビア様……すでにそれは恋というのでは……?)
ミーナの問いかけは飲み込まれ、部屋にはしんとした沈黙が落ちる。
***
その夜。
王宮の中庭。月の光が白い石畳に反射する、美しい夜。
オリビアがひとり、散歩をしていた。
少し気を紛らわせたくて。深呼吸をするために。
すると――
「……っ!」
茂みの向こうから、誰かがこちらを覗いていた。
「……え……王子……様?」
バサッと茂みが揺れる。
現れたのは、金髪に蒼い瞳の、あまりにも見慣れた顔。
そして――あまりにも挙動不審な王子。
「……っ、ち、違う……これは、その……」
「………………」
沈黙。
オリビアは笑顔を貼り付けながら言った。
「……王子様、もしかして、今……私のことを……つけてました?」
「……警護だ。」
「……私、今日、近衛兵の付き添い断りましたが」
「……自主的警備だ」
「それを“つけてた”って言うんですけど」
「黙れ」
「……」
その瞬間。
オリビアは決意した。
(――今夜こそ、言おう。私は、婚約破棄したいって)
そうしなければ、この中途半端な関係に終止符を打てない。
自分の心が、どこかで彼に期待してしまいそうで……それが怖かった。
「王子様。少し、お時間よろしいでしょうか?」
「……なんだ」
「大事な、お話がございますの」
王子の肩が、ビクンと震えた。
(……きた。これが噂に聞く、“破棄宣言”か……)
(でも、聞かなければならない。俺は王子だから……心の準備はしてある……!)
(でもオリビアの涙目とか見たら耐えられないかもしれないから、今日は目を合わせないで聞こう……!)
そんな心の叫びの末――
「私……婚約を――」
「その話は、あとにしよう」
「……え?」
アルベール王子は、ついに“逃げた”。
「……お前、今日、寒いだろ。先に部屋に戻れ。身体に障る」
「……あっ、えっ……?」
「夜風は、冷える。……風邪、引くな」
そう言って、彼はコートを脱ぎ――オリビアの肩にそっとかけた。
(……今の、なに……?)
オリビアはそのまま呆然と立ち尽くし、彼の背を見送る。
そして小さく呟く。
「……あれが、王子様なりの……優しさ……?」
それとも、最後の“慰め”?
分からない。ただ、分かるのは――
(……なんで破棄の言葉、言えなかったのかしら……)
彼女の手には、まだ王子の温もりが残ったコートがあった。