テラーノベル
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8月の陽光が、漆黒のセダンのボンネットを白く焼き、アスファルトからは逃げ場のない熱気が立ち上っていた。
俺は長袖のサマーニットの袖を無意識に手繰り寄せ、左上腕に刻まれた『蜘蛛』の感触を確かめる。
この不吉な脚は、かつて絶望した少年が俺の腕を強く掴んだ時の「傷」を隠し、同時にあの日を忘れないための戒めだ。
助手席のシズちゃんは、白地に淡い水色の花が散ったワンピース姿で、手元のスマホを熱心に眺めている。
シズカ「天利さん、出発しましょうか。
まずは御厨さんのマンションですね」
天利「ああ。……あしかがフラワーパーク、楽しみだね。
シズちゃんの知り合いが県北の方にいるんだっけ?
そっちの方は詳しいみたいだけど、足利は久しぶり?」
シズカ「ええ、冬のイルミネーション以来ですわ。
あの時は寒さで震えてばかりでしたけれど、今回は環境造園学部の御厨さんがいらっしゃいますもの。
プロの解説付きの散策なんて、贅沢な夏休みになりそうですわね」
車を走らせ、庸介くんの住む1Kのマンションへ向かう。
土用の丑の日、彼が「避難場所」としてここを覚えると言ってくれた時、ほんの少しだけ、彼を繋ぎ止める『糸』が増えた気がした。
現れた庸介くんは、真夏だということもあり襟元がざっくりとしたシャツを着ていた。
彼の父親の死因が絞殺なためか、首に対してトラウマを抱えていて首回りに何かが触れることに強い拒否感があり、現在もネクタイやネックレスなどを着用できない。
天利「庸介くん、おはよう。
乗って」
庸介「……おはようございます。
すみません、わざわざ」
後部座席に座った庸介くんは、相変わらず覇気のない瞳をしていたが、シズちゃんが「今日はよろしくお願いしますね、御厨さん」と微笑むと、少しだけ表情を和らげた。
庸介「……あの、蓼原さん。
……名前で呼んでください。
御厨って苗字、あんまり好きじゃないんで」
シズカ「あら……。
では、庸介さんとお呼びしても?」
庸介「……はい。
そっちの方が、マシです」
かつてはサッカーに明け暮れ、友人に囲まれて笑っていたはずの少年。
経済学を学び、父の跡を継ぐはずだった未来を捨て、彼は植物と造園の世界へ逃げ込んだ。
幼い頃、父と手を繋いで歩いた「不思議の国のアリス」のような薔薇の迷宮を、いつか自分の手で再現したいという、切ないほど純粋な願いと何も知らなかった頃の残滓だけを抱えて。
シズカ「庸介さん、朝ごはんはもう召し上がられました?」
庸介「はい、軽く食べて来ました」
シズカ「軽くですか……。
羽生PAか佐野SA……どちらで腹ごしらえしましょうか……?」
天利「どっちが近い?」
シズカ「近いのは羽生PAですね。
ここからだいたい30〜40分くらいかと……」
天利「じゃあ羽生PAにしよう。
休憩するにはちょうどいいし」
シズカ「では、おこわ専門店のいなり寿司とずんだシェイク……。
いえ、栃木名物『レモン牛乳』も捨て難い……」
庸介「……レモン牛乳って。
……でも、確かに少しお腹は空きました。
ありがとうございます」
東北道を滑るように進むセダンは、やがてモダンな建物が印象的な羽生PAへと滑り込んだ。
車を降りると、アスファルトの熱気と共に、パンが焼ける香ばしい匂いと、ずんだの爽やかな香りが混ざり合って鼻をくすぐる。
フードコートの一角。
シズカは「ずんだ茶寮」のシェイクを手に、庸介の前に「おこわ」と「アンデルセン」の惣菜パンを甲斐甲斐しく並べていた。
シズカ「ほら、庸介さん。
この『ずんだシェイク』、ひとくち飲むだけで夏の疲れが吹き飛びますわ。
……天利さん、そんなに自分のおこわを眺めていないで、早く召し上がれ。
冷めてしまいますわよ」
天利「ああ、分かってるよ。
……これ、本当に美味そうだな。
……あ、そうだ。2人とも、少し食べてて。
……あっちの売店で、パーク内で使うための冷感タオルとか、飲み物を追加で買ってきておくから」
庸介「……そんなの、僕が行きますよ」
天利「いいんだ、こういうのは『おじさん』の役目。
……庸介くんは、シズちゃんから造園のイロハでも聞いておいてくれ」
シズカ「私はどちらかというとフラワーアレンジメントですけどね……」
そう言って俺は、2人の笑い声を背に受けながら、席を立った。
天利「(……。さて、2人の邪魔にならないように、少し時間を稼ぐか。
……庸介くんが、シズちゃんの前で少しでも『普通の学生』に戻れているなら、このドライブを計画した甲斐があるってもんだ)」
俺はわざと足音を殺し、賑わう売店の方へと歩みを進める。
だが、その時、背後から流れてきた風に乗って、庸介くんの、あの氷のように冷ややかで、けれど震えるような声が聞こえてきた。
庸介「……蓼原さんは、どうして天利さんの隣にいるんですか?」
俺は、自動ドアの手前で足を止めた。
ガラスに映る俺の顔は、自分でも驚くほど、冷徹な『組長』の表情に戻っていた。
シズカ「……唐突ですわね、庸介さん」
庸介「あの人は、『不思議の国のアリス』の赤の女王のような人だ。
……あるいは、『走れメロス』のディオニス王。
……いつ誰の首を撥ねるかわからない、常に他人を疑心暗鬼の目で見て一切信用しない。
そういう人ですよ」
庸介くんの言うことは正しい。
俺を危険視した彼の父親は俺を消そうとした。
消される前に消そうと思った俺は、彼の父親の使い込みを暴き、若頭に薬を盛った上で密告して煽った。
だが、その結果の惨劇を彼に見られてしまった。
俺は彼から父親を、そして「陽の当たる場所」での人生を奪った張本人だ。
シズカ「……。ふふ、確かに天利さんは、時々恐ろしいほど冷徹な顔をなさいますわね」
シズちゃんの声は、驚くほど穏やかだった。
シズカ「でも、赤の女王は自分の庭を完璧に守ろうとしただけですし、ディオニス王は孤独ゆえに人を信じられなかっただけ。
……天利さんは、自分の大切なものを守るために、泥を被る覚悟を決めただけの方ですわ。
私は、その覚悟の傍にいたいと思った。
……ただ、それだけのことです」
沈黙が流れる。
シズカ「それに、私は軍師ですもの。
王が暴走しそうになれば、その手綱を引くのが私の役目。
……庸介さん、貴方が見ている『影』も、私の目には『光』を守るための輪郭に見えるんです」
庸介「……。……やっぱり、天利さんの言った通り、蓼原さんは、狡いな」
庸介くんの声に、少しだけ諦めと、救われたような響きが混じったのを俺は見逃さなかった。
天利「(……全く、うちの軍師には敵わないな)」
俺はわざとらしく足音を立てて、「お待たせ! 」と声をかけながら戻った。
庸介くんは、どこか遠くを見るような目で、俺とシズちゃんを交互に見た。
かつて彼が俺の腕を掴み、ワイシャツを破いてまで求めた「答え」は、まだ出ていない。
けれど、シズちゃんという『灯台』が照らすこの道なら、彼はいつか、自分の足で薔薇の迷路を抜け出せるかもしれない。
天利「さあ、着くよ。
あしかがフラワーパークだ」
車窓の外には、夏の力強い緑が広がっていた。
たとえ俺の左腕に消えない『蜘蛛』が這っていようとも、この2人が笑える未来のためなら、俺は何度でも赤の女王にだってなってやる。
そう心に誓いながら、俺は助手席で楽しそうにパンフレットを広げるシズちゃんの横顔を、静かに見つめた。
nappa
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コメント
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美月ゆめかだよ〜🌸 第35話読了! シズちゃんの「赤の女王もディオニス王も、守るためにああなっただけ」って言葉、めっちゃ染みた…😭✨ あの場面で庸介くんが少しだけ心開いた感じがして、燈台みたいなシズちゃんに私も救われた気持ちになったよ! 天利さんの冷徹な顔と優しさのギャップが毎回エモい…!次のエピも楽しみにしてるね🌸