「調子に乗り過ぎだって思われるかもしれないが、もう一つ我侭を言ってもいいかい?」
「はい、なんですか?」
「唯の隣に座りたいんだけど、構わないかな」
少し大きめのテーブルを挟み、司さんは床に座っていた。座布団もなしに硬い床にそのまま座っていた司さんに対し、今更申し訳なさを感じる。
「やだ!すみません、私ったら全然気が付かなくって…… 」
「いや、気にしないで。固いところに座るとか、んなのいつもの事だから」
「え…… 私、旦那様をいつも床に座らせるような奴だったんですか?」
そんな失礼をしょっちゅうしてただなんて、ショックだ。
「違う違う!仕事での話だから!家ではちゃんと椅子に座ってるよ」
「…… 本当ですか?」
知らない事なので、どうも信じられない。
「大丈夫だよ、本当だって。それで、唯の隣には、座っても構わないか?」
コクコクッと何度も強く頷き、私は少し大きな声で「もちろんです!」と答えた。
「ありがとう、唯」
司さんは優しく微笑むと、すくっと立ち上がり、私の横に腰掛けた。二人用と推測出来る革張りのソファーは大きめであるはずなのだが、彼が大きいからなのか、司さんの着る服が微かに私の服に触れる程に近い。
(もう少し端にずれた方がいいのかな?でも、離れたくないし…… むしろもうちょっと傍に行きたいなぁー)
なんて思っちゃう。
悶々と色々考えるうちに、司さんの事で頭がいっぱいになってきて、頬が少し赤くなってきた。そんな私の横で、紅茶の入るカップを手に取り、司さんがコクッと紅茶を一口飲んだ。
「落ち着くね、唯の横は」
ちょっと手を伸ばしたらすぐに触れる事の出来る距離で、司さんが私に向かい微笑む。
「あ、ありがとうございますっ」
慌てて答えた声は、少し裏返ってしまった。
「…… やっぱり、知らない奴が隣に居るのは緊張する?」
私の反応を勘違いし、司さんが苦笑してしまった。
「違います!き、緊張はしますけど悪い意味じゃなくて、その、なんて言うか、嬉し過ぎて緊張しちゃうって言うか、むしろもっと近くでもいいかなとか…… 」
変に早口になりながら、少し大きな声で捲くし立てる様に言ってしまう。
「——う、嬉し過ぎるだなんて、私何言ってんだろっ!」
言ってしまった恥ずかしい一言に、少し赤かった頬は熱を持つまでに。慌てて頬を手で押さえ、司さんから顔を反らす。そんな私の様子が可笑しかったのか、急に大きな声で司さんが笑い出した。
「す、すみません!忘れて下さい!」
「無理だな。そんな嬉しい言葉を言ってもらえたのに、忘れる何て出来ないよ」
優しい笑みを浮かべそう言うが、司さんの声はとても力強い。
「嬉しいなんて、そんな…… 」
そう言ってもらえて嬉しいのはむしろ私の方だ。隣に居るだけで顔が緩んでしまう程、私好みの顔と声。高い身長と、細く見えるけど脱いだら実は結構筋肉質なんじゃないかと服の上からでも推測出来る腕や脚。
妻だった頃の記憶をなくしてしまった今の私相手でも、イライラせずに優しく接し続けてくれる彼に、きっと私は——いや、私は完全に好意を抱いている。
一番最初に見た時は『誰?』としか思えなかったけど、次に改めて見た時にはもう、カッコイイな、素敵な人だなって思っていた。
(こういうのも一目惚れって言うんだろうか?)
「——司さん!…… あれ、司…… さん?」
勢いに任せ、もう『好きだ』と言ってしまおうか。司さんは私の夫だったのだから、拒否される事もないだろうと甘い考えもちょっと抱きながら告白してしまおうかと思ったのに——
司さんがソファーに寄りかかり、寝ている。
「いつの間に!?」
(今さっきまで、確かに私と話をしていたのに!)
「疲れていたのかな…… 」
小さな声で呟くと、私はそっと彼の柔らかな髪に触れてみた。私の小さな手の中で、司さんの黒い髪がさらっと流れ落ちていく。大きな身体をしたすごく年上のお兄さんなのに、寝顔がちょっと幼くってなんだか可愛い。確か三十代だって言っていた気がするけど、無防備に寝ている姿を見ていると、とてもそんな風には見えなかった。
(…… キスなんかしたら、起きちゃうかな?)
ふと、そんな考えが心に湧いたが、『駄目でしょ!そんな事したら!そんな事、痴漢と同じじゃない!』とすぐに自分の考えを否定した。
(だけど…… 私って、私に記憶がないだけで、司さんの『妻』なのよね?)
——って事はだ。キスの一つや二つ、私が司さんにしても、した事で起きちゃって彼にその行為がバレたとしても、司さんが怒ったりする事なんてないんじゃないかな。
ゴクッ…… 。音をたて唾を飲み込む。
私は司さんに出来るだけゆっくり、近づいてみた。触れてしまって起こさぬよう気を付けながら、司さんの正面に向かい、ソファーに手を置いて身体を支える。
「…… 」
真正面に彼の顔。どくんどくんっと、心臓が騒がしく動いている。
きっと何度も、司さんと私はキスをしてきたのだと思う。けど私にはその記憶がないどころか、誰かとキスをした事すら記憶にない。なので、実質私にとってはこれがファーストキスとなるのだけど…… 。
(初めてが痴漢的状況って、私何やってんだろう!?)
——でも…… 。
ちょっと動くだけで、司さんの唇に触れる事が出来ると思うと、触れてしまいたい衝動が心を占める。
そっとならいいよね?
少しだし、いいよね?
何度も自分にそう言い聞かせ、私はゆっくり司さんの方へと顔を近づけていく。全身が心臓にでもなってしまったみたいに鼓動し、耳も頬もひどく熱い。体重を支えている腕は震えるし、頭の中が真っ白になってきた。
——結局、度胸の無い私は、寝ている相手の唇を奪う事が出来ず、唇で額にそっと触れるのが限界だった。
勢いよく司さんから離れ、深呼吸し、二回、三回と深く息を吐き出して呼吸を整える。
「司さん、起きて下さい。ここで寝たら風邪をひきますよ?」
肩を軽く揺らし、声を掛けた。
「ん…… 」
顔を少し横に向け、司さんが小さな声をこぼす。斜めから見る顔も、とても端整でカッコイイ…… って!違う、今はそんな事考えてる場合じゃない!
「司さん!起きて、お布団に入らないと」
今度はさっきよりも少し大きな声で言ってみた。
「——え!?あ、ごめん!寝てたか?」
くわっと目を開け、司さんが寄り掛かっていたソファーからバッと飛び起きた。
「疲れていたみたいですね、ベッドで寝た方がいいですよ?」
「あぁ、ごめん。寝るつもりはなかったのに…… 家に居ると気が緩むな」
額に手を当て、司さんが小さな声で言った。
「昨夜は、あまり眠れなかったんですか?」
「ん?あぁ、そうだな」
「すみません、私のせいですよね」
「違うよ、大丈夫。でもごめん、ちょっとベッドで休んできていいか?」
とても眠そうな顔を上げ、司さんが私にそう訊いてきた。
「もちろんです」と頷く。
「ありがとう。目覚ましはかけておく。晩御飯を作る時間までには起きるから」
「そんな!それくらい私が」と言うと、言葉を遮る様に「駄目。唯に作らせたら何の為に仕事を休んでるのかわからないって、さっきも言っただろう?」と言われ、ちょっと安心してしまった自分がいる。
(だって…… 料理何て、どうしていいのか全然かわらないんだもの!)
目玉焼きくらいなら出来るけど、そんなもの晩御飯には出せない。いったい、今までの私は家事をどうこなしていたのだろうか?
そんな疑問を胸に隠し、私は「わかりました」と頷いた。
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