第3話「夜の約束」
「金は用意してある」
そう言ったつかさの声は、月明かりの下で異様に静かだった。
あの日から三日。
放課後になると、ふたりはこっそり合流して、公園の隅や人気のない駅の待合室で話をした。
ひなたはまだ信じられない気持ちのまま、それでも確実に“逃げる”という現実に足を踏み入れようとしていた。
「ネットカフェでバイトしてた。親にばれないよう、深夜シフトだけ。名前も年齢も偽ってたけど、金だけはちゃんともらえた」
つかさは、そう言ってカバンの奥から茶色の封筒を見せた。
中には現金がぎっしり詰まっていた。ざっと見て30万くらい。
「少ししたら、スマホも新しく買う。中古の安いやつ。アカウントも新しく作る。追われたときに困らないように、地図は紙で印刷した」
ひなたは、ただ黙ってそれを見ていた。
その全てが“現実”だった。ドラマでも漫画でもない、本当にふたりが逃げようとしている証拠。
「ねえ」
つかさがぽつりと呟いた。
「逃げても、後悔するかもしれない。途中で帰りたくなるかもしれない。……でも、そのときは一言だけ言って。『やっぱりやめる』って。
そしたら、ちゃんとあんたの手、離すから」
それは優しさのようでいて、悲しい覚悟だった。
どこまでも無理を強いることをしない代わりに、“自分が捨てられること”を最初から想定しているような言い方。
「やめない」
ひなたの声は震えていたけど、まっすぐだった。
「行くって決めた。わたし、ここにいたら、きっと死ぬ。
でも……あなたとなら、まだ、生きていたいと思えるから」
沈黙のなか、ふたりは互いの視線を受け止める。
つかさは、不意に手を差し出した。
指先が少し、かすれて、震えていた。
「じゃあ、約束」
その手を、ひなたはしっかりと握り返した。
小さな、小さな手の中の契約。
その夜、ふたりはそれぞれの部屋で最後の荷造りをした。
制服のまま逃げると目立つから、地味な服を選んだ。
服と、ブランケットと、現金と、携帯と、紙の地図。
大切なものは、何ひとついらなかった。
明日の夜、最初のバスに乗る。
行き先は、誰にも教えない。
ふたりだけの逃亡が、始まろうとしていた。
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