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今日から、このタワーマンションの最上階が俺たちの正式な「城」になる。
仕事中も、ふとした瞬間にポケットの中の合鍵をなぞってしまう自分に苦笑いした。鉄と硝子の塊でしかないこの鍵が、今はどんな代紋よりも重く、温かく感じる。
天利「シズちゃん!
晩飯、Uberかどこか近くの店にでも……」
扉開けた瞬間、俺の言葉は霧散した。
アイランドキッチンから漂ってきたのは、上質な昆布と鰹節の、肺の奥まで洗われるような出汁の香り。
シズカ「おかえりなさいませ、天利さん」
振り返った彼女は、淡い藤色の着物に真っ白な割烹着を纏っていた。
最新式の、無機質なメタリックキッチン。
その前で立ち働く彼女の姿は、まるで時代を飛び越えてきたかのように浮世離れして見えたが、同時に、これ以上なくこの場所に収まっているようにも見えた。
天利「え……シズちゃんのお手製?
めっちゃ嬉しい!」
シズカ「今日はお祝いですもの。
ささやかながら、用意させていただきましたわ」
マホガニーのダイニングテーブルに並べられたのは、料亭でもお目にかかれないような本格的な「茶懐石」の献立だった。
数日前まで家電量販店で「自動投入が……」と呟いていた男の夕食にしては、あまりにも高尚すぎる。
天利「すごいね……料亭に来たみたいだ。
でも、俺、茶道の作法とか全然知らないよ?」
シズカ「ふふ、今日は無礼講ですわ!
難しいことは抜きにして、私たちの『お城』の完成を楽しみましょう」
そう言って彼女は照れたようにはにかんだ。
まずは江戸切子の酒器で、スパークリング日本酒を交わす。
微炭酸が喉を叩く。
その冷たさが、今日1日の緊張をほどいていく。
シズカ「お造りはマグロと鯛で、紅白の彩りにいたしましたの。
心ばかりの縁起担ぎですわ」
天利「(……美味い。
鯛の身が、驚くほど甘いな)」
彼女の手料理は、どれも素材の味が立っていた。
炊きたての白飯の一粒一粒が輝き、海老とお揚げの味噌汁は、一口飲むごとに胃薬の代わりに俺の五臓六腑を癒してくれる。
天利「この鴨の塩焼きも、絶妙な火加減だね。
外はパリッとしてるのに、中はこんなにジューシーで……」
シズカ「ありがとうございます。
天利さんが選んでくださったオーブン、温度管理だけは『規格外』に優秀でしたわ。
コンベクションオーブンとしても使えそうですし……。
ありがとうございます」
数日前「オーブンは既にあります!」と一蹴されたハイテク家電を、彼女は既に自分の手足のように使いこなしていた。
天利「喜んでもらえて何よりだよ」
やはり彼女こそが、この城の真の主だ。
そして締めには、細く長くの「引越し蕎麦」。
天利「いい香りだ……」
シズカ「お茶の先生御用達のお蕎麦ですもの。
味見も香りも折り紙つきですわ」
深夜、静まり返ったリビングで、高層階の夜景を背に啜る蕎麦は、これまでのどんな高級クラブのシャンパンよりも俺の魂を満たした。
デザートに出された、季節を象徴する繊細な練り切りを見て、俺は思わず唸った。
天利「……これもシズちゃんが作ったの?」
シズカ「ええ。少し気合を入れすぎかしら。
……天利さん、お口に合います?」
天利「……ああ。贅沢だ。
本当に、贅沢すぎて怖いよ」
食後、彼女が丁寧に練ってくれた濃茶をいただく。
慣れない手つきで茶碗を回し、一口。
濃厚な舌触りに鼻に抜ける新緑のような香りと、心地よい苦味と旨味、 そして甘味。
天利「(……こんなに真っ当な、温かい食事。
俺のような人間が、このままこの光栄に浴していていいのかと、背筋が寒くなる)」
左腕の蜘蛛の刺青が、彼女の点てた茶の湯気に晒されて、今にも消えて無くなってしまうような錯覚に陥る。
暗闇と血の匂いが当たり前だった俺の人生に、突如として現れた「陽だまり」のような場所。
天利「(……シズちゃん。君の隣にいるために、俺は何度でも手を洗おう。
この温かさを守るためなら、俺はなんだってする)」
彼女が選んだ名店の落雁を口に含み、溶けていく甘さを慈しみつつ、彼女が点てた薄茶を一口。
この穏やかな時間が、ずっと続くのだと。
この城の壁が、外の世界の汚れをすべて遮断してくれるのだと。
……この時の俺は、まだ本気でそう信じていた。