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ないこは額を俺の胸に預けたまま、しばらく動かなかった。
ナイフを握っていた手は震えていて、血の跡がまだ乾かないまま指先にこびりついている。
さっきまでの鋭さや狂気は、どこかへ消えていた。
『…俺さ』
ないこの声は、驚くほど小さかった。
まるで、自分ですらその言葉を聞きたくないみたいに。
『フォークが怖いの、ずっと。 いつか食われるんじゃないかって思って、 誰が近づいてきても、全部敵に見えて…』
ぎゅ、と俺の服が掴まれる。
『だから…こうやって、先に攻撃して誰 にも触られないようにしてきたのに…』
ないこの声は震え、呼吸も不規則だった。
『いふさんだけなんか、違って… もうわかんないよ。どうして…』
俺はそっと、ないこの肩に手を置いた。
触れた瞬間、ないこはびくっと震えたが、それ以上拒まなかった。
「ないこ…怖かったんやな」
すると、ないこの瞳からぽた、と涙が落ちた。
泣くなんて想像すらできなかったないこが、震え声で絞り出す。
『…怖いよ。 フォークは嫌いだけど…いふ さんがいなくなるのは、もっと嫌だ。』
胸が締めつけられる。
守りたいという気持ちは、恐怖を超えて強くなっていく。
俺はゆっくり腕を回し、ないこの小さな身体を抱き寄せた。
「大丈夫だ、ないこ。 俺はないこを食べたりしない。 どこにも行かない」
ないこは、俺の胸に顔を押しつけるようにし
肩を震わせて泣いていた
弱さを晒すことに慣れていない、強がりのないこが、 こんな表情を見せてくるなんて。
俺はその涙が落ち着くまで、背中をゆっくり撫でていた。
…その瞬間だった。
ぶわっ、と。
まるで部屋の空気が甘さで満たされるみたいに。 濃厚な、焼きたてのカスタードみたいな、 生クリームが泡立つ音まで聞こえそうなほどの
“とてつもなくいい匂い”が、俺の鼻腔を支配した。
「っ…!」
体が、勝手に震えた。
喉が熱くなる。
噛みつきたい。
舌が勝手に動きそうになる。
“食べたい”
そんな本能が、頭の奥で暴れ始めた。
ないこが、ぎゅっと俺の服を掴んだ。
『いふさん…まだ、離れたく、ない…』
「っ…ないこ」
理性が、軋み、ひび割れる。
このままじゃ、俺は――。
「離れろ、お願いや…はぁ…はぁ」
声が低く、震えていた。
ないこはびくりと肩を揺らし、
ゆっくりと俺から離れようとした。
けれど、離れる直前。
不安そうな、迷子みたいな瞳で俺を見上げる。
『…嫌、じゃない、、よね…?』
違う。
違うんだよ。
嫌どころか、俺は今
“ないこを食べてしまいそうなんや”。
けれど、それを言えば
きっとないこは傷つく。
だから、必死に飲み込んで、
かろうじて息を吐いた。
「…頼む。今だけは、離れてくれ」
俺の声は苦しさで掠れていた。
ないこは驚いたように目を見開いたあと、
すっと俺から身体を離した。
『わかった…』
空気の甘さが少し薄れる。
けれど、まだ残っている。
あの匂いの余韻が、俺の理性を試してくる。
ないこは少し震える声で言った。
「ごめん。そんな強く匂いを出すつもり、なかった…」
その言葉が、胸に刺さる。
ないこは悪くない。
悪いのは、抑えきれなかった俺の方だ。
「…大丈夫や。落ち着くまで…そこにおってな」
俺はそう言ったけれど、
まだ、喉の奥が熱く疼いていた。
俺は、思っていた以上に、ないこに弱い。
そして、思っていた以上に、
ないこは俺を信じてくれている。
だからこそ。
“絶対に食べたりなんかしない”。