「ゆ、ゆず君……」
「はい♡ ゆずです。まあ、正式には祈夜柚、ゆうですけど」
自虐……いや、俺が言い間違えたところから始まったんだけど、ゆずです。と言った彼の顔は本当に天使のようだった。でも、忘れてはいけないと、彼の小悪魔スマイルを思い出す。
「そ、それで、何しにきたの?」
「えーっとですね、矢っ張り、痴漢ものはやめました。なので、恋人ものの甘いもの書こうかと思いまして」
「ごめん、バイト終わってからで良いかな? あと、一時間ぐらい」
「えー! そんなに待てませんよ。あと三〇分で」
ぷくぅ、と頬を膨らましてだだっ子のように言うゆず君。
そんなゆず君を可愛いと思ってしまう自分がいるのだが、流石に客を待たせるわけにもいかないので、そこは心を鬼にしてゆず君に向き合うことにする。ゆず君は結構な有名人だし、騒がれたら見せに迷惑かも、と思って、事情を話してバックヤードで待って貰うことにした。その間、店内を歩いても、彼だと気づく人はいなかった。ゆず君が、一般人を演じて、それ相応のオーラというか空気感を纏っていたからだろう。そこまで、適応できるのかと、彼が天才俳優だと知った今なら分かることだったが、何度見ても感心する。
そして、バックヤードで大人しく待っておいて、と言えば、すぐにゆず君は椅子を持ってきて、すらっと綺麗な足を組んだ。そして、すぐさま、スマホを取り出して弄り出す。本当に何のために来たんだって思うくらい図々しくもあった。
(ほんと、自由人)
ゆず君のためにも早くバイトを終わらせたかった。けど、そんなことで融通効かないし、何よりも楽しみに来てくださっているお客さんにたいして失礼だと、時間一杯まで働いた。
結局一時間きっちりやって、バックヤードに戻ればまだゆず君はそこにいた。俺に気づかない様子で、スマホを弄っている。
(そういえば、ゆず君は休業中のはずなのに、今度の映画に出るって……)
もしかして、台本を読んでいるとか? いや、さすがにもう、とり終わっているかも……なんて考えつつ、ゆず君を見ていれば、ばっちりと彼の宵色の目と目が合った。
「朝音さんのえっち」
「ち、ちがくて……あ、バイト終わったよ。ごめん、一時間経って」
「あ~もう、そんなに経ったんですね。気づきませんでした」
「何か読んでたの?」
「まあ、仕事をちょっと」
と、ゆず君は微笑む。
仕事、ということはやはり俳優業のことだろうか。
そんな感じで、ソワソワと見ていれば、また俺の視線だけで、俺の言いたいことが分かったのか、ゆず君はプッと吹き出した。
「朝音さん、やっと僕のこと調べたんですか。で、分かりました?」
「分かったって、ゆず君が……祈夜柚は俳優だってこと、休業してるってことだけ」
「それだけ、分かってれば上出来ですって。まあ、知らないままでも良かったんですけど」
ゆず君は何処か嬉しそうに笑って、スマホをポケットにしまった。
それから立ち上がり、背伸びをした後に、俺の方を見る。パチパチと何度か瞬きして、その宵色の瞳に光を集める。
「ごめん、待たせちゃってあれだけど、用事があってきたんだよね。えっと、これは、小説の話……だよね」
「はい! そうなんですよ。矢っ張り、痴漢ものって話膨らまなくて、恋人同士の物語を書こうかなあって思ったんです。それで、朝音さんには、デートに付合って欲しくて」
「で、デート!?」
「あ、はい。朝音さんが受け? で、僕が攻め? って感じで、デートのあと感想言い合って、どんな感じかなあっ、てのだけ。まあ、今回の『お願い』はこんな感じです」
「そ、そう……」
『お願い』と言われたら断れ無いのが俺だから、ノーも、いいえも言えなかったけど、相変わらず、発想が飛んでいるなあと思った。
(恋人のデートを疑似体験……か)
今度の『お願い』はこの間より、ハードだなあと思った。俺は、意識したら、恋人同士なんて出来ないだろうし、ゆず君はバリバリ役を作ってくるだろう。祈夜柚の強みは、役を自分に降ろすことだから。
「朝音さん?」
「何?」
「じゃあ、さっそく、明日お願いして良いですか?」
「え、あし……明日!?」
はい、なんて、笑顔で答えるゆず君。
何度でも思うけど、自由人というか、まわりのこと考えずに自分勝手で、物事決めるなあと呆れてを通り越して何も言えなかった。でも、それがゆず君の持ち味でもあるし、何よりも、彼の演技力の高さを見てしまったから、また見たいとも思ったし。そもそも、断る選択肢がなかった。
それに、恋人を擬似的に再現するだけだし、本当の恋人になれ、と言うわけじゃないだろう。あくまで、そういう風にしてくれ、と。
(それは、いいんだけど……)
恋人の気持ちって、たった一度のデートで分かるものなのだろうか、と俺は思ってしまった。だからといって、自分とはすむ世界が違うゆず君と付き合えるわけ何てないし……
(――って、俺、一応恋愛対象は女性……のはずなんだけど!?)
ゆず君の可愛さにやられて、好きになってしまっていたが、これは、可愛いものを愛でる感情だと、俺は言い切って、ゆず君を見た。ゆず君は変わらぬ可愛さで、小首を傾げ、ん? と俺に大きな瞳を向ける。そんなゆず君を見てると、まあ細かいことはどうでもいいか、と俺は制服を脱いで、ゆず君と細かい打ち合わせをするためにバイト先から帰ることにした。
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