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「そんなのって……」
「一旦落ち着きましょう、雫先輩。戸惑う気持ちは分かりますが、冷静になってください。あと少しで、アイツがここを通る時間になりますから」
差し出されたグラスを手に取って一気に飲み干すと、冷えた水のおかげで少しだけ気持ちが落ち着いてくる。奥野君の言う通りだ、感情的になっても何も良い事なんてない。
今は自分の心を殺して浮気の事実を確認し、その証拠を掴むのが一番大事なのだから。
「ごめんなさい、だいぶ落ち着いたわ。もう大丈夫だから」
「そうです、その調子でいきましょう。俺は先に会計を済ませてきちゃいますね、いつでも出れるように」
そう言って奥野君は私の分の伝票も持って行ってしまう、後でお金を渡さなくては。そんなことを考えながら窓の外に目をやると……
そこには若い女性と、その隣で笑う男の子。そしてその子供と手を繋いで歩く夫の姿があった。
「岳……紘さん……うそ、でしょう?」
心のどこかでは奥野君の見た男性は岳紘さんに似た別人なのかもしれない、そんな期待を抱いていた。だけど、窓の外に映るその姿は間違いなく自分の夫で。
会社に行くと言って出たはずの岳紘さんだったが、朝着ていたはずのスーツではなく見たこともない私服姿に変わっていた。
「来たんですね、急いで後をつけましょう!」
支払いを済ませたらしい奥野君が、私の腕を引っ張って立ち上がらせる。そうされることで私はやっと、自分が何をすべきかを思い出すことが出来た。
喫茶店の横の道を通り過ぎていく、岳紘さんたちの姿は一つの家族のようにも見えた。本当の彼の家族は、私のはずなのに……
すぐ傍に居る妻の存在に、岳紘さんは全く気付きもしない。
「行けますか、雫先輩?」
「大丈夫、私は大丈夫だから」
よほど酷い顔をしているのだろう、奥野君が心配そうにそう声をかけてくる。でもここで引き返しても意味はない、もう私はこの目でしっかりと見てしまったのだから。
この先どうするかなんてことは考えてない、ただハッキリとさせておくべきだと思ったのだ。岳紘さんが本当に想う女性のことも、手を繋ぐほど仲の良い男の子の存在も。
「行きましょう、どうやらあの角を曲がるみたいだわ。あの先は……?」
「商店街のはずです、買い物でもするんでしょうか」
一定間隔をあけて、私と奥野君は岳紘さんたちの後をついていく。彼らはいくつかの店の前で足を止めては、店員と話をして何かを購入していた。
その様子は馴染みの客、というように見えて。そのまま買い物袋を持って三人で並んで歩いていく、そんな彼らの向かう先は閑静な住宅街だった。
「……あの家みたいですね、後で俺が表札を確認してきます」
ごく普通の一軒家、その玄関で女性がポストを確認した後にドアを開ける。すると男の子が岳紘さんの腕を掴んで家の中へと連れていく、それが当然の事のように。
閉じられた玄関の扉、夫は私以外の女性の家に躊躇いもなく入っていったのだ。今まで岳紘さんが私に紹介してくれた人物の中に、先ほどの女性はいなかった。
家に上げてもらうほど仲の良い女性、子供もあれほど岳紘さんに懐いている。
知りたいと思ったのも私だったが、こうして事実を目の当たりにするとショックはとても大きかった。裏切られた事への悲しさや悔しさ、いろんな感情が入り混じり私の心を乱していく。
「そう、こういう事だったのね。私が何も知らないだけで、岳紘さんはずっと……」
奥野君から岳紘さんを木曜日に見ると聞いて、私はこっそり職場に確認をしていた。毎週木曜日、夫はここ数年いつも午前中だけの勤務だったそうだ。つまり、私と結婚する前から岳紘さんは、あの女性と……
「雫先輩、表札の名前は【小野前】でした。知ってますか?」
「いいえ、初めて聞くわね。これからどうするの、このまま岳紘さんが出てくるのを待つ?」
私がそう聞くと、奥野君は小さく首を振った。私ももうここにいるのは辛かったから、彼の答えにホッとして。そのまま無言で二人でさっきの喫茶店まで歩いて戻った。