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眠狂四郎
北の大地に春が来るのは遅かった。
長い冬が終わっても、地面はまだ冷たく、朝になれば薄い霜が草を白く染める。
それでも人々は土を掘った。
男たちは石斧と木鍬を持ち、森を切り開く。
乾いた音を立てて倒れる針葉樹。
切り株からは白い樹液が滲み、湿った土の匂いが立ちのぼる。
女たちは枝を集め、火を焚き、焼けた灰を畑へ撒いた。
痩せた土地でも、少しは麦が育つように。
子どもたちは川から石を運ぶ。
畑を作るには邪魔になる石だった。
冷たい水で手を赤くしながら、小さな腕で何度も往復する。
集落はまだ小さい。
丸太を組んだ家が十ほど。
屋根には獣の皮と草が被せられている。
煙穴から立つ白煙だけが、人の営みを遠くへ知らせていた。
冬を越えた家畜は痩せ細っていた。
羊は骨が浮き、
山羊はわずかな草を探して地面を嗅ぐ。
だが人々の目は死んでいない。
この土地を、自分たちの土地に変える。
その執念だけで生きていた。
部族をまとめる女性ヨルズは、焼け跡になった森を見渡しながら言う。
「森は神々のものだった」
低い声だった。
「だが畑は、人のものになる」
誰も答えない。
ただ鍬を振るう音だけが続く。
北風が吹く。
冷たい風だった。
それでもその風の中に、わずかに春の匂いが混じり始めていた。
鍬を地に置き、トールは山の向こうを眺めた。
黒雲が渦を巻いている。
空は裂け、
白い稲妻が何本も大地へ突き刺さっていた。
春の嵐だった。
北の民は、雷を神々の怒りと呼ぶ。
だがトールの胸は、不思議と静かだった。
なぜか――
あの雷は、自分を呼んでいる。
そんな感覚があった。
その瞬間。
世界を裂くような閃光が走る。
轟音。
稲妻が、真っ直ぐトールへ落ちた。
全身が焼ける。
骨の奥まで砕けるような痛み。
トールは絶叫し、その場へ崩れ落ちた。
だが意識が沈む中で、
失われていた記憶が流れ込んでくる。
戦場。
巨人。
燃える空。
神々の咆哮。
そして――
己の名。
どれほど時が経ったのか。
目を覚ましたトールは、泥だらけのまま立ち上がった。
荒い息を吐きながら、一目散に家へ走る。
粗末な木造の家。
庭の隅。
大木の根元。
トールは素手で土を掘り始めた。
爪が割れ、
指から血が滲む。
それでも掘る。
まるでそこに何があるか、最初から知っていたように。
やがて――
硬い感触。
土の中から現れたのは、一振りの短い槌だった。
黒ずんだ鉄。
だが、その表面には青白い光が脈打っている。
トールは震える手で槌を握る。
その瞬間。
空が唸った。
トールは槌を高々と掲げる。
次の瞬間、
天から稲妻が落ちた。
轟雷。
閃光。
雷は槌へ吸い込まれ、
青白い光がトールの全身を包み込む。
力が満ちる。
血が沸騰する。
忘れていた何かが、完全に目を覚ます。
トールは空を見上げた。
そして、静かに呟く。
「俺は……」
低い声だった。
「俺は雷神トール」
雷鳴が轟く。
風が荒れ狂う。
トールは槌を握りしめ、笑った。
「戦うために生まれてきた男だ」
その日。
北の大地で、
最初の神話が始まった。
トールは森へ入ると、
部族でもっとも大きな古木を切り倒した。
何日もかけて幹を削り、
丸太を割り、
巨大な車輪を作る。
北の部族にとって、
車輪そのものがまだ珍しい時代だった。
村の男たちは、その異様な造りを遠巻きに見ていた。
「なんだ、あれは」
「舟か?」
「違う……」
誰にもわからない。
だがトールだけは迷いなく手を動かしていた。
やがて完成したのは、
二輪の巨大な戦車だった。
厚い木板。
鉄の留め具。
獣の皮で補強された車体。
まるで戦そのものを運ぶための乗り物だった。
トールは家へ戻る。
粗末な家の前で、
母ヨルズが薪を割っていた。
その傍らには、
部族に残された二頭だけの山羊。
冬を越えた痩せた獣だった。
ヨルズは黙ってトールを見た。
そして言う。
「本当に行くのかい」
トールは頷く。
「この土地は狭すぎる」
「俺たちはもっと強くならなきゃならない」
ヨルズはしばらく黙っていたが、
やがて山羊の綱を手渡した。
「連れていきな」
「この子たちも、お前を選んだんだろう」
二頭の山羊には名があった。
タングリスニ。
そしてタングニョースト。
山羊たちは不安げに鼻を鳴らした。
戦車など見たこともない。
まして自分たちが引かされるなど。
――食われるのではないか。
そんな怯えすら感じていた。
だが戦車へ繋がれた瞬間、
二頭の身体に奇妙な力が満ちる。
筋肉が膨らむ。
角が大きく伸びる。
瞳に野生の光が宿る。
タングリスニは鼻息を荒くした。
タングニョーストは地面を掻く。
まるで神話の獣へ変わり始めているようだった。
トールは戦車へ飛び乗る。
背には槌。
空では黒雲が渦を巻いていた。
村の男たちが集まる。
斧を持つ者。
槍を持つ者。
獣骨の兜を被る者。
飢えた若者たちだった。
トールは彼らを見渡し、言う。
「この北の大地を」
「俺たちが征服する」
その瞬間、
空が鳴った。
雷鳴。
タングリスニとタングニョーストが咆哮し、
戦車が走り出す。
轟音が大地を揺らす。
人々は後に語った。
あの日、
雷そのものが北の大地を駆け抜けたのだと。
そしてトールは、
雷鳴を引き連れながら、
周辺部族へ戦いを挑んでいった。
これが雷神を主神とする
ヴァルケン国の始まりとされている
月日は流れた。
雷神トールが北の大地を駆けた時代は神話となり、
その名は吟遊詩人たちの歌の中で語られるのみとなっていた。
だが、その血は絶えていない。
ヴァルケン王国。
北方最大の国家となったその玉座には、
今もなおトールの末裔が座っていた。
王アテイラ。
若くして諸部族を従えた英雄王である。
玉座の傍らには一人の男が立っていた。
筆頭顧問オルフェンス。
細身の身体に豪華な毛皮をまとい、
静かな目で王を見守っている。
その横には、
ジャーマン族族長にして騎兵隊長ゲルダリク。
熊のような巨体を誇る戦士だった。
さらにその隣には、
パン族族長にして歩兵隊長ガラメール。
岩のように動かぬ男が腕を組んでいる。
王宮には重い沈黙が流れていた。
アテイラがゆっくりと立ち上がる。
その青い瞳が家臣たちを見渡した。
「昨夜――」
低い声が広間へ響く。
「雷神トールのお告げがあった」
誰も驚かない。
誰も疑わない。
それがヴァルケンだった。
王は神の血を引く。
王は神の声を聞く。
それは北の民にとって当然のことだった。
アテイラは続ける。
「南東へ向かう」
ゲルダリクの口元が歪む。
戦の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
「海神ポセイドンを崇める者たちを討つ」
静寂。
オルフェンスは目を閉じた。
反対する理由はいくらでもあった。
遠征距離。
補給。
兵糧。
未知の土地。
だが王はすでに決めている。
神託が下された以上、
この戦争は避けられない。
ガラメールが静かに口を開く。
「出陣はいつだ」
アテイラは笑った。
獣のような笑みだった。
「今だ」
ゲルダリクが豪快に笑う。
オルフェンスは深いため息をついた。
ガラメールは黙って頷いた。
こうして北の王は軍を動かす。
神の名の下に。
雷神の旗を掲げて。
そしてこの日、
後に神々戦記と呼ばれる大戦争の幕が開いた。
コメント
1件
えええ、第1話からこんなド迫力なの!?😳✨ トールが雷に撃たれて記憶取り戻すシーン、鳥肌立った…「俺は雷神トール」って自己紹介、かっこよすぎて叫んだわ😭💕 戦車ひく山羊たちが神獣みたいに変わるのもエモいし、アテイラ王の「今だ」にも震えた🔥 神話の世界観が一気に広がってて、続きが待ちきれないよ…!! 次話も楽しみにしてるね⋆♡