岡田が木下を逮捕したその瞬間、彼の胸には安堵の気配もあったが、同時に深い空虚感が広がっていった。木下が目の前で手錠をかけられ、警察車両に乗せられるのを見送る自分に、どこか遠くから響く声があった。彼はまるで別人のようだった。友人を捕まえること、それがこんなにも苦しいとは思わなかった。
それでも、岡田は警察官としての使命を全うしなければならないという義務感があった。木下を捕まえることで、犯罪が止まる。だが、心の中でそれだけでは納得できない自分がいた。木下が裏社会に深く絡んでいるか、どれほどその世界で生き抜いてきたかを知っていたからこそ、逮捕することがこんなにも痛かったのだ。
「どうしました?」
隣で見守っていた部下が声をかけてきた。彼は岡田の心情に気づいているのだろうか、それともただの業務的な問いかけか。
「いや、ただ…思うところがあって。」
岡田は短く答えた。その言葉を深く追求せず、ただ頷いていた。
警察署に戻る道すがら、岡田は頭の中で木下との過去を思い出していた。二人はかつて、同じ町で育った。小さな頃から一緒に遊び、同じ夢を持っていたはずだ。だが、木下が暗い世界に引き込まれ、いつの間にか彼の道は違うものとなってしまった。それでも、岡田は彼を守りたかった。友人として、警察官として、何かあったはずだと思っていた。
だが、結局木下は自分の道を選んだ。それは裏社会で生きる道であり、岡田が踏み込むことが許されない領域だった。
署内に戻ると、上司である山田が待っていた。岡田が木下を連行し、逮捕したことを確認するために呼ばれたのだ。山田は岡田を見ると、少し不満げに言った。
「まだ木下に情が残っているのか?」
岡田は言葉を詰まらせた。上司の目は鋭く、何もかも見透かすような鋭さがあった。岡田は目をそらし、静かに答えた。
「情があるわけではない。けど、何かが…」
山田はため息をつきながら、椅子に腰を下ろした。
「情だよ、それは。俺たが犯人を逮捕できるのは、感情に流されないからだ。だが、お前はどうだ?感情に引っ張られている。」
岡田はその言葉に反論できなかった。確かに、自分は木下を捕まえることに対して冷静ではなかった。友人として、彼を救う方法があったはずだと考えていた自分が、今は警察官として冷徹に木下を捕まえている。どこかで、この仕事に向き合えずにいる自分がいた。
「わかってます、山田さん。」
岡田は頭を下げて答えた。だが、その言葉がどれほど空虚であるか、自分でわかっていた。
その日の帰り道、岡田は自分の行動を再び振り返っていた。木下を逮捕することで、自分の中に一つの線を引いたような気がした。警察官として正しいことをしたのだろう。だが、心の中では選択が間違いだったのではないかという疑念が消えなかった。
「俺は、木下を見捨てたんだろうか?」
問いが何度も頭を巡る。
木下が犯していた罪は許されるべきものではなかった。わかっていた。しかし、岡田が何も知らないまま、ただ警察官として仕事をしていたわけではない。木下をよく知っていた。彼がどうして裏社会に足を踏み入れたのか、どうしてあの道を選んだのか。それを理解していたからこそ、心のどこかで彼を助けたかったのだ。
だが、その「助ける」という気持ちが、自分には通用しないことを痛感していた。木下が背負っているのは、ただの罪ではなく、彼自身の選んだ道だった。そして、その道を歩んでいくためには、もう一度覚悟を決めるしかない。
家に帰ると、岡田はふと自分の父親の顔を思い出していた。彼もまた、警察官だった。岡田が子供の頃、父親はよく言っていた。
「警察官として生きることは、自分を犠牲にすることだ。だが、俺たちはそれを選んだんだ。」
その言葉が今、胸に響く。岡田は、父が残した言葉の意味をようやく理解し始めていた。警察官として生きることは、決して楽な道ではない。そして、その道を歩む決意を新たにした。
だが、その先に待っているのは、もっと深い闇なのかもしれない。