テラーノベル
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諏訪を出て、二日目。塩尻の手前の、小さな宿場町で、要は手形を作った。
きっかけは、一本の割符だった。
町の入口で、男に呼び止められた。相模湖で、薪と靴の割符を割った男だった。甲府の市でも会った。その男が、今度は、塩尻にいた。
「あんた、木の人だろう」
「要です」
「頼みがある」男は、懐から、割符の片方を出した。「これ、甲府の米屋と割ったやつだ。来月、米を十キロ、受け取る約束。でも、おれは来月、甲府に行けない。木曽の方に、仕事ができた」
「それで」
「この半分を、誰かに渡して、代わりに米を受け取ってもらいたい。でも、渡した相手が、米を持ち逃げしたら、終わりだ。どうすればいい」
要は、割符を受け取って、見た。
割符は、二人の間の約束だ。割った二人が、合わせる。それ以外の人間は、関係がない。だから、割符は、二人の間でしか動かない。
この男は、割符を、三人目に渡したがっている。
「後で」を、人から人へ、移したがっている。
「一ノ瀬さんなら、どうするか」要は、つぶやいた。
一ノ瀬は、江戸の商人の話をしていた。割符の次に、商人が作ったもの。紙に、期日と、量と、支払う者の名前を書き、第三者に渡せるようにしたもの。
手形。
「紙を、使います」要は言った。「割符は、そのまま持っててください。その代わり、紙に、こう書く。『この紙を持ってきた者に、来月、米十キロを渡す。甲府の米屋。保証人、あなた』」
「紙は、信じられないって、あんたが」
「一枚なら、信じられない。だから、三枚書く。一枚は、あなたが持つ。一枚は、僕が持って、甲府の会長の台帳に、写しを入れる。一枚は、米を受け取りに行く人が持つ。三枚が合って、初めて、米屋は米を渡す」
男は、首をひねった。
「面倒だな」
「面倒です。でも、持ち逃げは、できない。一枚だけ持ってても、米屋は渡さない。三枚揃えるには、あなたと、僕と、台帳の三つを騙さないといけない」
「……誰に、渡せばいい」
「丸が、多い人に」
要は、瑠衣を見た。瑠衣が、三冊目のノートを開いた。甲府の評判台帳の写し。丸の数が、多い順に、名前が並んでいる。
一番上の名前は、要の知らない人間だった。甲府の、魚の仲買人。丸が、二十七。
「この人に、渡してみてください」
紙が、三枚書かれた。
要が書き、男が署名し、要が、一ノ瀬の印を押した。印は、出発の前夜、要が自分で彫っていた。下手な字で、『土師』とだけ。
男は、一枚を懐に入れた。一枚は、要の三冊のノートに挟まれた。一枚は、男が、翌日、甲府に戻る行商人に託すと言った。行商人の名前は、瑠衣の写しの、上から四番目にあった。丸が、十九。
「これで、本当に、米が受け取れるのか」
「わかりません」要は正直に言った。「でも、受け取れたら、この紙は、金になります」
「金?」
「来月、米十キロ、という約束の紙です。持ってる人が、米を受け取れる。だったら、この紙を、今、誰かに、米十キロ分の何かと交換できる。米を、まだ受け取っていないのに」
男は、しばらく考えてから、目を見開いた。
「……紙が、米になる」
「紙が、米の、約束になる。約束が、信じられるなら、紙は、米と同じ価値を持つ」
要は、自分で言いながら、背中が熱くなるのを感じた。
これだ。
金は、これだ。紙が、何かの約束を表す。約束が、信じられる。だから、紙が、価値を持つ。千円札も、電子マネーも、全部、これだった。日本銀行の約束。システムの約束。
それが、信じられなくなった。だから、紙は、紙に戻った。
今、目の前で、紙が、もう一度、約束になろうとしている。日本銀行ではなく、一人の男と、一ノ瀬の印と、甲府の台帳の、三つの約束で。
小さい。弱い。遅い。でも、本物だ。
「要さん」つむぎが言った。「五つ目」
「五つ目」
「顔、三冊、割符、評判。そして、手形」
要は、ノートの隅に、書いた。
夜、宿場町の空き家で、要は、三枚のうちの一枚を、長い間見ていた。
『この紙を持参した者に、来月、米十キロを渡す』
下手な字。下手な印。それでも、これは、大剥離の後、要が見た中で、一番、金に近いものだった。
瑠衣が、隣で、三冊目を書いていた。今日の分。字は、少し、ましになっていた。
「要さん。これ、紙だよな」瑠衣が言った。
「紙だ」
「紙は、増やせる。コピーすれば」
「増やせる。でも、三枚揃わないと、米屋は渡さない。一枚を百枚にしても、残りの二枚がない」
「一ノ瀬のじいさんが言ってた、割印ってやつか」
「そう。三枚にまたがって、一つの印を押す。一枚だけ増やしても、割印の残りは、他の二枚にある」
瑠衣は、ペンを止めて、言った。
「ゼロは、これを、どうやって増やすんだろう」
リフェアリー
128
要は、答えなかった。
増やせない。この紙は、三人の手と、一つの印と、一冊の台帳で、縛られている。ゼロが入れるのは、記録の中だけだ。この紙は、記録ではない。約束だ。約束は、手の中にある。
たぶん、ゼロは、これを、増やせない。
要は、初めて、そう思った。
(第19話「塩尻峠」へ続く)
コメント
1件
# 感想 第18話「手形」読み終えたよ〜〜!!😭💕✨ 割符から三枚の紙による手形システムが生まれる瞬間、マジで震えた…!「小さい。弱い。遅い。でも、本物だ」って一文が刺さりすぎて何度も読み返した。 日本銀行とか電子マネーの話が要の知識として出てくるのも、大剥離後の世界と対比になっててエモい…「これだ」って背中が熱くなる感覚、こっちまで熱くなった🔥 紙が約束になる=金になるって展開、キャピタリズムの萌芽って感じでワクワクが止まらないんだが?!瑠衣がペンの字ましになってる描写も好き〜成長してるね😭 ゼロが手形を増やせないかも…って最後の一文、鳥肌たった。続き待ってます!!