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待ち合わせ場所のメッカなのか。ひとは多い。不気味なほどに皆、スマホをいじっている。薄闇に煌々と顔が照らされ、その深刻さを浮かび上がらせる。時々、広坂の自宅最寄り駅前でスマホをいじる集団を見かけるが、いまだに、ポケモンGOが流行っているのだろうか。彼女はスマホゲームをしないから世間の動向が分からない。が彼女の見る限りでは、電車内ではSNSやスマホゲームをする人間が大半のようだ。それから、ワイヤレスイヤホンで携帯で音楽を聴く人間も。彼女はCDの響きのほうが大好きなので、いまだにタワレコでCDを買う。広坂宅に、箪笥以外では唯一、CDプレイヤーだけは持ち込もうと思っている。DENONの、奮発して買ったオーディオ機器だ。なんと別売りでMDを聴く機器も当時販売されていたが、時代を感じる話だ。彼女があのオーディオ機器を購入したのは、十年以上前。ひょっとしたら広坂があのマンションを購入したのと同じ時期かもしれない。
カレーをたくさん作ってしまったので、約束は金曜に延びた。金曜の夜の新宿と言ったらすさまじいものがある。待ち合わせ場所は満杯、ルミネエストのスタバも満杯、……好きな場所なので通りがてら覗いてみたら、やはり、満杯。いったいあのスタバでどうやったら着席出来るのか、彼女には謎である。
外気は、暑すぎず、寒すぎず。フラペチーノ片手にちびちび飲むにはちょうどよい気候だ。同じ思いを抱く人間は多いらしい、スタバのフラペチーノ片手にスマホをいじる女の子をちょいちょい見かける。そういえばいまは、タピオカが大流行なんだとか。確かに、広坂宅への帰宅途中、ひとつの商店街に二店舗もあることに驚愕した。広坂曰くもう一店舗、駅の反対側にあるんだとか。一度一緒に飲もう、と広坂は言った。生活を共にするうちに、美しい約束が縷縷(るる)とふたりのなかに重ねられていく。生活を共にするというのはそういうことなのだ。さてこちらでもタピオカドリンクを飲む女子がちらほら。かつてのナタデココみたいに、大流行の末に超不足、そして一挙に衰退という道を辿らなければいいが。人気というものは水物であり、それに踊らされると痛い目に遭う。
「あっ可愛い子見ーっけ」
世相を考えているうちに広坂到着。彼は彼女を見て手を振った。思わず手を振り返しそうになるのだが、いけない、と彼女は自身を諫めた。……見知らぬ男女が恋に落ちるってシチュよ。
すると、近づいた広坂が長身を屈め、「……ひとり?」
「いえ、あ……」言い訳まで考えていなかった。「でも、さっき友達からドタキャンだって連絡が入って……。急に会議が入ったみたいで……金曜日の夜なのに、空気読めないですよね」
「きみみたいな子を探してたんだ」にっこり、背筋を正し、広坂は笑う。「ぼくは、こういう者です」
「え……」名刺を差し出され、受け取る。そこには、
『millenniumチーフディレクター
香坂(こうさか)徹(とおる)
TOHRU KOUSAKA』
……随分と、手の込んだ準備をするものだ。いつ作ったのか? 笑いをかみ殺しながらも彼女は広坂に調子を合わせる。「へえ……美容師さんなんですか。でもどうして? 女の子ならほかにいくらでもいるじゃないですか」
「きみって地毛が茶色いし、可愛いし、映えすると思ったんだよねー」よくよく見れば、ジャケットの下は黒のTシャツだ。髪の毛もワックスでラフに整えられており、しかも、トレードマークの眼鏡を外したコンタクト。彼女は広坂の本気度を見た。「女の子から話を聞き出して、より、可愛くなれるようお手伝いするのがぼくのお仕事だから、……ねえ、ほんのちょっとでいいの。美味しい店知ってるから。ぼくに時間――ちょうだい」
手を合わせる彼に彼女は笑顔で応じた。「じゃあ、ちょっとなら……」
「ありがとう!」
近くにいる女子たちがちらちら彼女たちを見ている。完全に、美容師に口説かれた女の子だと思われているに違いない。なんだか、可笑しかった。どこの世界に、彼女の不安を払拭するために、疑似美容師を演じる男がいるのか……広坂の愛情の深さが伝わり、彼女の胸を苦しくさせた。
「へー。総務のお仕事をされてるんだー。なるほどなるほど」
東口にほど近い居酒屋のかまくら型のムーディーな個室にて。美容師にインタビューされている体を、演じる彼女である。
「手を見ればだいたい、分かるよ。あなたの場合は、華奢できれいな手をしているから……事務のお仕事だなって思った」
「……ですか」
テーブルに添えた手に広坂のそれが重ねられる。――どきん。彼の感触は、いつでも彼女を、甘ったるい世界に誘ってくれる。すりすりと彼女の手の甲を撫でる広坂は、熱っぽい瞳で、「……二人きりになれる場所に行きたいな……空腹を満たしたら」
「お手が早いんですね」
どぎまぎしながら広坂の誘いを流すと、「でもないよ」と広坂。
「あなたからは、匂いがするんだ。感じやすい女の子は大体、見分けがつく。機転が利くし、感受性が豊かで、反応がいい……当然ながら、ああいうときの反応なんか、極上だ」
ごくり、と彼女は唾を飲み込んだ。テーブルに並べられた食事が目に入らない。広坂――香坂という男を演じている、広坂だけが目に入る。まるでたったひとり、この世に存在するのが、この男だけであるかのように。
「……抱かれて、みたい、な……」
ほろりと、本音が漏れる。広坂の表情を見て彼女は説明を加えた。「なんていうか、その……女にだって、めちゃめちゃに抱かれたい夜があるんですよ。どうして、男の人だけが平均的に、性欲が強くって、女の人は淡白なのか……それが常識化していることに、わたしは疑問を感じます。まあわたしの田舎では女の子はオナニーしないのが普通でしたけど、でも、でも……」何度となくエクスタシーに導かれた、めくるめく愛の時間を彼女は思い返す。「……わたし、分かってしまったんです……女のひとは、愛されれば愛されるほど変わりうるということが。丁寧にじっくり愛されればそれだけ、女性のからだは変化するということが。肉体的変化に伴い、精神的にも、花が自然と開くように、開いていくことが……」
そこで、広坂が、美容師としての仮面に手を触れた。「ならばぼくは、どうすればいい? 香坂徹としてきみを抱けばいい? それとも、広坂譲としてきみを抱こうか」
「わたし、あなたがいい……だってわたし」
彼女は声を震わせながらも、胸の奥に秘めた愛の真実を伝えた。
「わたし、あなたを、愛しているのだから……」
電車で向かう時間が惜しかった。抱かれるなら、受付の顔も見えない施設よりも、広坂のぬくもりの感じられるあの部屋がよかった。住んでまだ一週間だが、あそこは快適であるのみならず、広坂が大切にしてきた歴史を感じさせ、またほかならぬ広坂に愛されているという事実が、たとえ宅にひとりであっても、彼女のこころをあたため続けていた。
引っ越しはまだ完了しておらず、それまでは、週末ごとに最低限の荷物を広坂と一緒に取りに行き、宅急便で送ることに決めている彼女であるが……広坂のマンションは一階の郵便受けの隣に宅配ボックスがあり、不在であっても暗証番号さえ入力すれば受け取れる……便利なシステムである。それでも、衣類や調味料の詰まった重たい荷物を一階から五階まで、ひとりで運ぶのは大変なので、なるべく在宅中の十八時以降に受け取ることが多い。この生活にも慣れてきた。新婚さんいらっしゃい状態のふたりにあと足りないのは――セックスだ。
逸る鼓動を抑え、彼女は広坂を見つめ返した。燃えるような情熱が瞳に宿っていた。その狂おしさに胸が締めつけられる。このひとの体温が触れ方が存在感がなにもかも、好きだ。こんなに好きになれるひとなど、いまだいなかった。この恋に比べたらいままでの恋は、恋だったのかすら疑わしい。
自分をさらけ出すこともなかった。不満も不安も押し殺すばかり。相手の話に聞き入る、物わかりのよい女を演じていた。嫌われるのが怖かった。特に、山崎に対しては、不満など一切こぼさず……彼はいつも、お腹が空いたといって突然やってきた。メッセは送るのだが調理中の彼女は手が離せず、よって日頃から四人分料理を作る癖がついた。来ない日はひとりで二日三日続けて同じ料理を食した。山崎は美味しい手料理が食べたいと言って甘え、彼女は材料が足りない場合は、それが何時であっても近所のスーパーや二十四時間営業の店に行き、食材を調達し、彼のために料理を振る舞った。よく食べる男であった、山崎は。
山崎が来るのは殆どが平日で、ふらりと休日に来るのは、予定がないときのみ。暇つぶしに利用されているのかと感じた……が彼女はその不満をも飲み込んだ。今更合コンなどする年齢ではない、と嘆いているうちに、気が付けば三十路を過ぎていた。三十路を過ぎるとなお出会いは減った。周囲の人間は着実に結婚出産を経験し、彼女の知らないボーナスステージに進んでおり、自分ひとり取り残された気がした。山崎はそんな彼女の拠り所であった。それがノーマルなのか否かは別として。
山崎は、自分だけの欲求を満たす夜がほとんどであり、彼は、広坂のように、礼を言うどころか、丁寧に彼女を導くことさえしなかった。前述のとおり、山崎が贖罪に走るのは、彼が罪を犯したときのみ。いつの間にかそれを待ち構え、やがて、怒りすら薄れて行った。感情が麻痺していき、自分がなにに対して感動するのか――感情が平坦で、美味しいものが美味しく感じられない、そんな夜もあった。三十を過ぎた頃から開き直り、山崎の来ない休日に、ひとり外食をすることが増えた。傍から見ればイタいアラサーに見えようが構わない、しかし美意識だけは維持するよう努力した。
酒や食事で鬱憤を晴らせど、山崎のにおいの染みついた布団に入るときはひとり……孤独で枕を濡らす夜が続いた。来れば孤独は癒された。だが、それは山崎への愛というよりはもはや、哀れみに近かった。浮気をする都度、捨てないでくれ、と彼は懇願する。山崎が泣くのはあのときだけで……あの涙を見るたび、彼女は、許さなければと思い、そして絆される。負の連鎖のなかにいた。いわゆる、共依存。
それと比べると、広坂のような、献身的な男性と一緒になるのは無類の幸せだと思った。過去何度か彼女は男に抱かれたが、広坂ほど、彼女の官能を優先してくれ、また飽きることなくどこまでも深く引き出し、更に付き合ってくれる男は、見たことがなかった。言葉通り、彼が本当に彼女を愛していることが、伝わってきた。男に尊重されるとはどういう意味なのかを、彼の行動を介して、彼女は学んだ。特に、丹念なる愛撫が効果的であった。あんなに、我を忘れるほどにのめりこむ自分が怖くなるほどであった。
しかし、三十九歳たる広坂は、自制心を壊すことはなかった。社会人としての務めを果たし、また家庭人としても、常に協力的であった。一緒に皿を洗いながらジョークを飛ばす。エプロン姿の彼女を背後からそっと抱き締める……キスを交わす。こまごまとした日常にするりと彼という存在が入り込んできて、隙間も許されないほどに満たす。愛のある日常とはこういうものを指すのだろうと彼女は思った。
彼女が、精神の整理を試みているというのが分かっているのだろう。考えに耽る彼女を、広坂は黙って見ていた。その視線もまた、おだやかなものであった。握りしめる彼の手の感触はあたたかかった。どんななにがあっても彼はこの手を離すことはない――そういう、強い意志のようなものが感じられた。握りしめる力など強くなくとも。
「ちょっと入ろう」
駅に着くと、途中のコンビニで避妊具を買う。……ちゃんとしたひとなんだな、という尊敬の念と、いよいよ……一線を越えてしまうのか。ほんのちょっとの当惑が沸いた。何故ならば男は、一度女と結ばれると態度を変える。おれの女呼ばわりをし、支配的になる男がほとんどだった。他の男と会話をしようものなら不機嫌になる……彼の友達に挨拶をしただけで怒って帰る彼氏もいた。広坂がそういう男だとは思えないが、でも……。
ここで、彼女のこころに、迷いが生じた。広坂の指摘した不安が的中したかたちだ。過去の体験と照らし合わせて……もし、広坂がそんな男に成り下がったらどうしよう、と彼女は思った。
彼女は、コンビニで、立ち尽くした。動けなかった。――もし、愛するあなたがそんなふうになったら、いったい、わたしはどこに行けばいいの……。
「……夏妃」会計を終えた広坂が、頭をぽんぽん撫で、彼女に告げた。「無理、しなくていいから。きみの気持ちは、分かっている。不安があるのなら、いまはやめよう……な?」
「でもわたし」
涙があふれ、情緒不安定だ、と思い知らされる。若見の暴露からまだ一週間。気持ちの整理が、ついていないのだ。新しい環境に適応することで精いっぱいで。
するとそんな夏妃を、ひとめ構わず姫抱きにし、広坂は、マンションに隣接する公園へと運んでいく。ベンチに座らされ、薄闇に包まれた公園の暗い木々の影を浴びながら、たおやかな花の気配を感じていると、やがて、彼女の荒波は落ち着いてきた。
「わたし、……ごめんなさい。本当、されてばっかで……自分で、自分が、いやになるんです。愛しているんなら、女だったら、一刻も早く受け入れるのが普通じゃないですか。でも……怖くって。
一線を越えて、もし、広坂さんに飽きられたら、生きていけないって、思うんです……」
そうではないか。不安要素があるからこそ、広坂は契約結婚を提案した。実際一緒に暮らしてみて、生活のしみったれた部分をふたりで共有しなければ、見えてこないものがあるのだと。これが、それなのかと。自身の体験を伴い、初めて広坂の主張が腑に落ちる。彼は、このことを、言っていたのだ……。
「変わらない愛情なんてないよ」と彼女の涙を拭う広坂。「愛は、変質しうるものだ。……変化を恐れていてはなにも出来ないよ、と言うのは簡単だけれど、実際そうなってみないと、分からないものだよね……。いっぺんに全部のことを解決しようとしないで、ゆっくり、絡まった糸をほどいていくように、自分の気持ちと向き合っていけばいいんじゃないかな……。そうしていけば、きみの欲する答えは、見つかるはずさ、必ず。そのために、ぼくは、出来るだけのことをするつもりだ。
ひとつだけ確かなのは、ぼくは、きみを、愛している……夏妃。
重すぎるのじゃないかって、不安になるくらいだ……。
実際生活してみると、きみの気配を感じるだけで安らぐ。きみの声を聞くとぼくは落ち着く。電車って結構ストレスだよね? 満員電車にぎゅうぎゅうに揺られても、きみとくっついていると、ぼくのこころは、癒されるんだ……これが、ぼくにとっての、真実だ。いま現在のね。
きみが、どうしてもぼくが欲しい、って段階になったらぼくはきみを抱くから、そこは、心配しないで? ぼくは、きみの感じてる顔がたまらなく好きなんだ。ぼくだけにあの顔を見せて声を聞かせてくれることに、優越感すら覚えている……ほらきみ、あんなになるなんて初めてだって、打ちあけてくれただろう? 嬉しかったよ……。
会社できみの表情を見てると、ああバリア張ってるなって、思うよ。にこやかなんだけどね。これ以上立ち入られたくないってオーラを感じる時もあるよ。なんというか、プライベートは持ち込まない主義だよね。それはいいことなんだけど、でも、……安らげる場所はあるのかなって、心配してたんだ。
気づいてる? きみね、ぼくと一緒になってから、……なんかね、顔が変わった。いいふうに。ますます魅力的になって輝いて、眩しいくらいだよ。
それでね、ちょっと笑っちゃったのが、きみね、ぼくを見るとなんかすごくほっとする表情するんだよ……無自覚なのかもしれないけど。なんていうか、うまいたとえが思いつかないんだけど、飼い主見つけた忠犬ハチ公みたいな……目の色が違うんだ。それね、香坂徹に対しても同じだからちょっとね、笑っちゃったよ……ぼくに対してきみはバリアを張らないんだね。
ぼくがきみの安らぎになっているのなら、これ以上、嬉しいことはないよ。ずっとずっと、きみのことが、気になっていたから……。
ほら飲もう? そんなに泣いちゃ、からだがからからになっちゃう」
広坂はコンビニでコンドームと一緒に買った、ペットボトルを手渡した。清涼飲料水。まさか、こうなることを見越していたのかと勘ぐってしまう。ふたりがいつも飲むのは、無糖炭酸水なのだが。
彼女がごくごくと飲むと、そのさまに広坂が笑った。「いい飲みっぷりだよね。本当、あなたって気持ちがいい……」喉の渇き具合はものすごく、500mlのペットボトルが一気に空になってしまった。
「――行こうか」と広坂が彼女を誘った。手を繋いで彼女を立たせ、「もっと、……あなたのことが知りたい。あなたさえ抵抗なければ、昔の話とかもいっぱい、聞かせて欲しいな。
おれのなかをもっと、あなたのなかで、いっぱいにして?」
その夜、明日のための荷造りを終えると、幼少期の頃から、山崎のことなど……いろんなことを話して聞かせた。うんうん、と落ち着いて聞いてくれる広坂はなんだか、カウンセラーのようだった。横やりを入れることなく、彼女の欲しい言葉をくれ、相槌を入れる、そのタイミングも的確で、話ながら彼女は、広坂という人間の懐の深さに、感じ入っていた。こんなに深くてやさしい男を、彼女は他に知らない。
午前三時を回った頃、眠気が訪れ、広坂に抱き締められながら眠った。その眠りは、布団とベッドの感触もあいまって、とても気持ちがいいものであった。同時にそれは新たな発見をもたらした。それは――広坂と愛の行為をせずとも、こうして平穏に過ごせるということである。セックスが目的、契約結婚が目的であれば、このような関係は成立しない。この時期に輝く若緑のように、すくすくと、まばゆいばかりの広坂への愛が、彼女のなかで膨らんでいった。
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