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第59話 炎の柱
――その震えが、観測の座にも届いていた。
九尾は帝辛の魂核を見下ろしている。
「善意を律に組み込んだ魂は、支配に馴染む。たやすく折れる。だが、折れ目が美しい」
慈悲はない。憐れみもない。ただ、観ているだけだ。
魂核の奥に沈んだ、微かな抵抗に、尾がふっと笑うように揺れる。
「……まだ選ぼうとしている。よく残ったものだ」
(……これは――勝者が書いた帝辛だ)
(周が編んだ正史に残る、涙の暴君。記録者の筆が描いた輪郭だけの王)
(ここでは、笑みを守れない)
縫季は膝をつく。有限の体に重さがのしかかる。
「……黒闢、退け」
震える声だったが、魂は揺れていなかった。
黒闢は何も言わず、ただ縫季を見下ろす。
「陛下。この世界はあなたに相応しくない」
ぽたり、ぽたり。帝辛の涙が落ちる音がした。
縫季は胸に光を押し当てた。帝辛の魂の震えが、自分の新しい鼓動と重なる。
体のどこかで、香がひと筋失われた。寿命という概念が深く刻まれる。
(急がないと……本当に時間がない)
「帝辛。君の魂は――ここには、紡げない」
涙を流しながら「民を犠牲にせよ」と言わされる帝辛。その言葉を拒絶して震え続ける、本来の帝辛の魂。
この世界は、二つの矛盾で濁っていた。
縫季は立ち上がろうとするが、脚は震えた。しばらく動けない。
それでも――胸の奥で、帝辛の魂が弱く光った。
(……行ける。まだ行ける)
縫季は黒闢から目を逸らさず言った。
「次だ。まだ……探せる」
帝辛の涙が落ち続けるなか、縫季は世界線の縫い目へと足を踏み入れた。
重たい。息が荒い。体は崩れ始めている。
それでも。
(帝辛が――涙を流さない場所を)
世界線が裂け、縫季は次の世界へ沈んでいった。
――その光が、観測層をもう一度かすめた。
九つの尾が、一斉にわずかに立つ。
帝辛の魂核と同じ震えを帯びた、この場に属さない者の気配。
「契約の計算に含まれない因子。修正者でも救済者でもない」
尾の先が、わずかに笑うように揺れた。
「……危ういな」
一拍。
「魂を抱えて歩くには、あれは情が深すぎる」
その響きは、歓喜ではない。興味だ。長く観測を続けてきた者が、予測の外から生まれた『誤差』に向ける、静かな熱だけがそこにあった。
「面白い」
残ったのは、九つの尾だけが描いた薄い波紋と、どこか妖しく美しい沈黙だった。
◆
世界が軋む音がした。
縫季は、またひとつ、香の縫い目を越える。
落ちるというより、削れながら沈んでいく感じだった。縫い目をくぐるたびに、体のどこかが薄くなる。
胸の中で、小さな光が震える。帝辛の魂だ。
震えは弱くなっていた。それでも、確かにそこにある。
(……まだ、行ける)
縫季は自分にそう言い聞かせる。
白い光が裂け、世界の色が変わる。
◆
最初に来たのは、熱だった。
焼けた金属の匂い。焦げた油。遠くで、潰れた声が途切れ途切れに上がる。
地面は石。足裏に硬さが戻っている。
(……宮の外だな)
縫季はゆっくりと顔を上げた。
宮殿の城壁。その内側、広場の中央に、それは立っていた。
巨大な銅柱。
炎に包まれ、真っ赤に染まっている。熱が空気を歪めていた。近づかなくても頬が焼けるように熱い。
柱には、人影が縛り付けられていた。
人か。もはや、その輪郭だけが人だったものか。
縫季は、目を凝らなかった。凝らせば、余計なものまで焼き付いてしまう。
(……炮烙)
歴史の中に刻まれた文字が、縫季の胸を通り過ぎる。
酒池肉林。炮烙。
殷が滅ぶとき、語られることになる言葉。
今、その「言葉」になる前の光景が、目の前にあった。
縫季は、息を吸った。肺の中が乾いてひりつく。
(……ここに、帝辛がいる)
胸の光が微かに脈打つ。嫌な震え方だった。
縫季は、視線を上げる。
広場の端。石段の上に、玉座が臨時に設えられている。
そこに、帝辛が座っていた。
王の衣。まっすぐな背筋。形だけ見れば、いつもの帝辛と変わらない。
ただ――
コメント
1件
うわ、第59話「炎の柱」、めちゃくちゃ重かった…。「善意を律に組み込んだ魂は、支配に馴染む」って九尾の台詞、怖すぎて鳥肌立ったわ。縫季が「帝辛が涙を流さない場所」を探して世界線を渡る姿、なんかもう切なくて。炮烙の柱の描写が生々しくて、読んでるこっちまで頬が焼ける感じがした。帝辛の魂、どうか救われてほしい…。次話が待ち遠しい🔥